|
- 賭け−ｓｉｄｅ Ｅ - 「誰も心の底から悲しんでいる奴はいない…。ばあやだってそうさっ」 そう言って、弟が駆け出していく。私の横を通りすぎた弟は、痛々しいほど哀しそうな顔をしていた。 優しすぎる弟には酷だと思った。宮廷内の人間達の思惑は汚く、私達には偽る事と欺くことをも要求される。 「ばあやはさがっていてくれ」 困惑気味の神官長にそう言い残し、私は涙を浮かべて展望台に向かった弟の後を追った。 「マッシュ…」 展望台の手すりに手をつき、肩を震わせている弟に声を掛ける。私の声に弾かれた様に弟が振りかえった。 「兄貴…。国を出よう。こんな争い事ばかりの国を出て、自由に生きよう…」 そう言った弟の瞳はひどく哀しそうだった。 耳にしてしまった、大臣達の会話。父王の病状が悪化した時に、崩御の時にさえ、しきりに交わされる跡継ぎを巡る思惑。 優しい弟は、酷くやりきれないに違いない。 弟の言葉に、正直、そうできればどんなにかと思った。王の子でなければ、義務と責任がもしなければ…。 私は、弟さえいてくれればそれで良かった。 しかし私は王の子であり、生まれた時から義務と責任があった。そしてなによりも、私はこの国を愛していた。 「しかし、一度に二人の世継ぎを失ったら、この国は…？ 父上は国を頼む、と…」 私の言葉に、弟が哀しそうに目を伏せる。 弟は分かっているのだろうと思った。ただ深い悲しみが、汚れていない心が、そう言わせてしまったのだろう。 宮廷で生きていくには弟は優しすぎた。そして私は、そんな弟がなによりも大切だった。宮廷内の汚い思惑に、傷付いていく弟を見たくはない。 「マッシュ、父上のくれたこのコインで決めよう。表が出たらお前の勝ち。裏が出たら私の勝ち。勝った方が王位と自由、好きな方を選ぶ」 私の提案に、弟が驚いたように私を見た。やがて、意を決したように頷く。 それは、私達が別れ別れになるという事だった。 生まれた時から何時も一緒だった弟と、離れ離れになるという事。 私は、弟に傍にいて欲しかった。弟さえいてくれればそれで良かった。 しかし、傍に置くことで弟が傷付いていくことには、耐えられなかった。このまま傍に置いていては、私は弟を守れない…。 守りきれない事。弟が汚れてしまう事。そして、平然と偽り、欺く自分を知られる事が、私には耐えられなかった。 執着と弱い心が、何時も私に道を選ばせる…。 懐から取り出したコインを、弟が見つめていた。 手の中のコインを、指で弾き空に放つ。 夜の闇の中、金色のコインが仄かな銀の月明かりを受け煌いた。 負ける事が、私にとっては勝つという事。 そして、負ける事で賭けが始まるのだ。 そう。これは賭け。 弟が幸せになるということに、すべてを賭けるのだ…。 賭け−ｓｉｄｅ Ｍ 「兄貴…。国を出よう。こんな争い事ばかりの国を出て、自由に生きよう…」 そう言った俺に、兄が複雑な表情を浮かべた。僅かに逡巡し、そして口を開く。 「しかし、一度に二人の世継ぎを失ったら、この国は…？ 父上は国を頼む、と…」 俺はその時、密かに後悔した。そんな事ができるはずがない事を、俺は分かっていた。 そして、もし二人でここを出たとしても、兄は義務と責任を放棄して幸せになれる人ではない事も。 父王が病に倒れた時、父に代わって政を行ったのは兄だった。様々な懸念があったらしく、数年前から兄は懸命に父の補佐をしていた。 漠然とながら、俺は政というものが綺麗事ではすまないことを知っていた。一年前に起こった、叔父による父王の暗殺未遂事件が、強くそれを知らしめた。 兄は以前からそれを知っていた。それから何時も俺を守っていてくれた。 そして俺は、守られていることも知らずに守られ、守られていることに気が付いてからも、何もできないでいる弱い子供だった。 そんな自分が酷く不甲斐なかった。 優しい兄。その優しさ故に傷付いていく兄。そんな兄が俺は大好きだった。そして俺は、そんな優しい兄を守りたかった。 「マッシュ、父上のくれたこのコインで決めよう。表が出たらお前の勝ち。裏が出たら私の勝ち。勝った方が王位と自由、好きな方を選ぶ」 兄が微笑を浮かべてそう言う。俺は驚いて兄を見た。 それは、兄と離れ離れになるという事だった。 それは、考えてもみなかった選択肢。 兄が、酷く綺麗な笑みを浮かべて俺を見ていた。 傍にいてはいけないのかもしれないと、そう思った。 兄はどんな時も俺を守ってくれた。そして自分を守ることはせず、自分が傷つくようなことをあっさりと受け入れる。 そんな穏やかで優しい兄は、唯一、俺には見せない自分の一面を俺にだけは知られたくないと思っているようだった。 人の上に立つものとして、時に冷酷とも言える判断を下す兄を、俺は冷たい人だとは思わない。兄が自分の手が汚れていると思っているとしても。 でも今の俺は、そんな兄を守ることも支えることもできない。弱く不甲斐ない俺が兄の傍にいることは、兄の重荷にしかならないのかもしれない…。 返答を待つ兄に、頷きを返す。兄の手からコインが離れた。 夜の闇の中、淡い銀の月明かりを受けコインが煌く。 やがて兄の手に戻ったコインを見、次いで兄の顔を見る。 「…お前の勝ちだ」 そう言って、兄が笑った。 兄の傍を離れたくはなかった。けれども、自分の存在が兄の重荷になり続けるのはもっと嫌だった。 守れもせず、支えにもなれず、ただ傍にいたいからと重荷になり続けるのでは意味がない。 でも…。 困惑気味に自分を見る俺に、跡継ぎ問題にも決着が付くし、王様家業は嫌いではないのだと兄が笑って見せる。 その笑顔は、哀しいくらいに綺麗だった。 自分の不甲斐なさと弱さが、何時も兄の道を定める…。 俺は、兄を守りたかった。 守れるだけの強さが欲しかった。 兄のために。そして、自分自身のために。 だからこそ、今度は自分の意志で道を選ぶのだ。 |