- あはれなるもの -


　部屋の中央に置かれた箱から物音が聞こえ、一馬は咄嗟に腰を低くし、刀に手を伸ばした。 箱の大きさは一辺が十五センチといったところだろうか。鳴き声が漏れてくるそれに生き物が入っているのは想像に難くないが、 大して危険な生き物が入っているとは思えない。
　些か大げさな一馬の反応に微笑を浮べ、さして警戒することなく不知火は箱を開けてみた。

「可愛い！」
　一馬が喉元で押し止めた言葉が、部屋に響く。代わりに発してくれたのかというタイミングの声の主は麗だった。 満面に笑みを浮べ、不知火の膝の上に居場所を定めた子猫にぱたぱたと歩み寄る。
　危なかった、と一馬は息を付いた。
　一馬が警戒していたのは、実はこれだった。にゃーにゃーと鳴き声が聞こえる捨てられていた箱から何が出てくるか、といったら九割方子猫に決まっている。 そして、子猫といったら可愛い。出てきた可愛いものに感嘆の声を上げずにいられようか、いや、いられない。
　代わりに叫んでくれた麗に密かに感謝し、一馬は警戒を解いて子猫に視線を向けた。
「可愛い。ふわふわだ〜」
「カワイイ？」
「ええ。ミケ、抱いてみますか？」
「…不知火ってトラ猫はとらでぶち猫はぶち、でもって白猫はしろ？」
「変ですか？」
「うんにゃ。ま、良いんでない？」
　三毛猫を囲む麗、豪鬼、不知火、不破の四人を、一馬は所在無さげに少し離れた所から見ていた。 子猫には触りたい。非常に触りたくはあるのだが…。
「一馬も抱っこしてみませんか？　可愛いですよ」
　にっこりと笑って不知火が一馬を促した。不器用に子猫を抱いていた豪鬼から子猫を受け取り、一馬に見せるように差し出す。
「…俺はいい」
「子猫は嫌いですか？」
「…いや」
　不思議そうに首を傾げる不知火に殊更不機嫌を装って、一馬は子猫を見ない様に視線を床に落とした。
「大丈夫だって。ぎゅーってしたいならしても誰も笑わねえから」
　楽しそうに笑い、弾むような声で不破が言った。

　床が抜けなければ良いが。
　その場を傍観していた水貴は、蛙が轢き殺された様な声を聞きながら、冷静に冷たい視線を床に向けた。
「小さいな。生後三ヶ月くらいかな？」
「そうですね。そのくらいでしょうか」
「…あの、一馬くん。足、退けないの？」
　一馬に抱かれた子猫は、その場所が気に入らないのか一馬の肩へと登っていく。 子猫が一馬の肩から不知火の方へと跳ねた瞬間、狼狽した一馬の右足に体重が掛かった。
「ぐえっ」
　再び蛙が轢き殺される様な声を漏らし、不破の体が大きく跳ねる。
　そして彼は動かなくなった。



　庭に置かれた大きな箱から物音が聞こえ、一馬は咄嗟に腰を低くし、刀に手を伸ばした。 箱の大きさは一辺が一メートルといったところだろうか。中から聞こえる獰猛な唸り声は、一馬の警戒心を呼び起こすのに充分な物だった。
　約ニメートルの距離を置き、一馬、不破、水貴、豪鬼の四人が見守る中、その箱が大きく動き閉じてあった蓋が開いた。

　これは捨てられるだろう。
　そう思ったのは水貴だけではなかった。ちらりと目をやると、不破がぽりぽりと頭を掻いている。 その顔は、捨てたくなるかもなあ、と言いたげだ。
　何も緋嘉見の近所に捨てていかなくても、と、水貴は溜め息を付きたかった。
　獰猛な唸り声を上げるその犬はかなり大きい。真っ黒な毛並みの上に筋肉の隆起が見て取れる。 大型犬は基本的に素手の人間よりもはるかに強い。
　刀に手を添えている一馬が、右足を僅かに引いた。

「可愛いですね」
　緊張に包まれた空間に、穏やかな声が響いた。

（あの犬の後ろを取った…。）
（可愛い！？　あれが！？）
（…っ！？）

「カワイイ？」
「ええ。可愛いですよ」
　驚愕のあまり声も出ない三人を他所に、豪鬼がとてとてと不知火に近寄る。 唸り声を上げ、飛び掛ってくる直前の様に思えた黒犬は、従順な犬そのものの様に不知火に尾を振り、大人しく頭を撫でられていた。
「不知火、嘘を教えるんじゃないっ」
　些か裏返った水貴の声が響いた。
　百歩譲ってもあの黒犬に可愛いという形容詞は出てこない。グレートデンと土佐犬とドーベルマンをたして、 ブルドックを隠し味にした様な黒犬は、五十歩譲って漸く強そうといった形容が出てくるか、といったところだろう。 おそらく、怖い、という形容が一番賛同を得られるのではないだろうか。
「いいじゃんか。世の中にはあれを可愛いって言う奴だっているだろうし」
　実際不知火はそうみたいだし、といち早く立ち直った不破が水貴に言う。不破の言葉に、水貴が勢い良く振りかえった。
「相変わらず無責任だなっ。確かに僕は不知火の感性について意見する気はない。しかし、豪鬼があれを可愛いと認識して、 まかり間違って月の輪熊やらニシキヘビやら人食い鮫やらを連れて来て『カワイイ、かう』とか言ったら君はどうするつもりだ！　 熊を海に返して来てくれるのか？　蛇を山に戻してきてくれるのか！？　鮫を森に捨ててきてくれるのかっ！？」
「すごい。ノンブレス…」
「…おい、帰す場所が一個ずつずれてるぞ」
　赤子のような豪鬼に正しい教育を施す使命を感じているのか、はたまたずれた感覚が我慢できないのか、 水貴が不破の胸倉を掴んで激しく揺する。その彼の耳には勿論、一馬の突っ込みの声は入っていない。
　周りは微笑ましく見ている、もしくは、犬と水貴が怖くて近付けないため、 不破が開放されるのは水貴の両手が疲れた頃だろうと思われたその時。 硝子細工の鈴を鳴らしたような、涼やかで品のある声が短く響いた。

「可愛いですね」
　瞬間、時が凍る。水貴の手から力が抜けた。
「ええ。お手も出来るんですよ」
「まあ」
「…ポチ、でしょうか」
「ええ。ポチですね」

　…何が？

　三人の脳裏に浮かんだ言葉は同じだ。しかし、その質問を声に出せる人間はいなかった。
　よしんばその質問が出来たところで、あのニ人の世界には入っていけそうにない。というか、入りたくない。
　呆然とする三人の前では黒犬が服従のポーズとお手を繰り返し、はちきれんばかりにしっぽを振っている。 黒犬の低く太い鳴き声が辺りに響いた。


　その日、澪姫の婿には自分が一番相応しい、という水貴の自負が大きく揺らいだ。

　

またもくだらないものを…。
唐突に思いつき、絵が上手くいかないので逃避的に書いてみました。 題名は思いつかなかったので適当です。
完結していない作品で文は書けないのですけど…。こういうのなら良いのかしら（笑）。
出来れば生温かい目で見てくださると…。呆れないで〜っ。
（日記ページにこっそり置いておいたのを、２００２．０８．３１にこちらに移動。）

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