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音を立てずに押し上げたカーテンの向こうで、彼が眠っていた。月の光も差し込まない地下にある室内には、明かりがいくつか据え付けられている。微かな明かりが開いたカーテンの隙間から差し込み、漸くぼんやりと見えるように彼の顔を照らしていた。 彼が僕に会わなくなって二周間。彼の顔色は以前ほどは酷くない。それでも、一月の間頻繁に体調を崩していた痕は今も見え隠れしていて、ほっそりとした首筋や手首に罪悪感や後悔が頭を擡げる。 淡い金髪に手を伸ばして、触れる寸前にその手を止めた。 「……ごめんね」 彼が深く眠っているのを確認し、起こさない様にそっと呟く。心のどこかで彼が目を覚ますのを期待して、でもきっと彼は僕を見てはくれないから、目を開けて欲しくはないと考えて。 彼に触れる事で、僕はいつも奇妙な安堵感を覚えていた。 自分が良いと思うことと自分が願うこととの違いが嫌で堪らなかった。自分がこんなにも独占欲が強かったなんて知らなかった。……いや、知りたくなかっただけなのかもしれない。 ロンをハーマイオニーに取られたような気がしていた。ハーマイオニーをロンに取られたような気がしていた。二人が上手く行けば良いと思うのと同時に、心の奥では今までの関係のままでいて欲しいと願っていた。 渇望していたものが手に入ると、今度はどんなことをしてもそれを手放したくなくなる。 そんな自分の感情を僕は持て余していた。持て余し、苛立っていた。 だから、僕を真直ぐに見る薄青い瞳に衝動に駆られた。 だって彼は、僕の事を見て、知っている。 これ以上は無いというほどに最悪な関係は壊れ様も無く、どんなことになったとしても構うことは無い筈だ。 そして僕は、衝動に駆られるままに彼に触れた。 縋る様に。僕という存在を刻み付ける様に。 傷付けたかったわけじゃない。 あの衝動は、壊したかったからじゃない。 ただ、僕は……。 僕の存在を消し去って、彼は日々を過していく。 彼が僕に会わなくなって、一月。彼が僕と関わっていた事を示す痕は、今はもう何も残っていないように思えて、僕はその事に喪失感を覚えた。 今思えば、行動を起こしていたのは彼。そして、それを煩わしく思い、断ち切ったのは僕。 彼に会うたびに、壊してしまったのは僕なのだと思い知らされる。 僕が彼に会いに行く回数が片手では足りなくなって、両手でも足りなくなりそうで、それでも何も変わらない。ただ、喪失感が増して行くだけ。 自分のしてしまった事を思い出し、触れることすら躊躇して、僕は彼を見下ろす。何かが変わることを期待して。何かを変えられる事を望んで。 もし彼が、あの薄青い瞳で僕を見てくれたら、そうしたら僕は何かが出来るかもしれない。 そんな風に期待して。 たとえ彼が目を覚ましても、彼はあの薄青い瞳で僕を見てはくれないかもしれない。 そんな風に、恐れて。 僕が彼に会いに行った回数が両手で足りなくなった頃、僕はもうどうすれば良いのか判らなくて、ただ、衝動のままに彼に会いに行っていた。 ふと、今更の様に思った。彼に触れてから、僕は親友二人のことを考えて苛立つことが無くなっていた。二人の仲睦ましい様子を見ても、当たり前の様に事実を受け入れていた。関係がゆったりと変化していく事をごく自然に受け入れていた。 全部のものが欲しかったわけじゃない。僕は、ただ一つのものが欲しかったんだ。そしてそれはロンやハーマイオニーに求められるものではないと、心の何処かで知っていた。 今更それに気が付いても、遅いのかもしれない。 だってもう、僕は壊してしまった。 もっと早くに気が付けば良かった。 「……ごめんね」 呟きが漏れる。喉が詰まって、上手く言葉が紡げなかった。 もう、どうして良いのか判らない。 「……ごめん」 それしか言えなくて、何も出来なくて、嗚咽が漏れるのを押さえ込む。堪え切れなくなり、僕はその場を立ち去ろうとして、驚愕に固まった。 やはり彼の瞳は薄い青だったと、咄嗟にそんなことを考えた。白金の睫が、数度瞬く。彼が、不思議なものを見るように僕を見ていた。 惹かれるままに、口元に当てていた手をゆっくりと彼の白い頬に伸ばす。冷たい頬を撫で、それから白金の髪を掻き揚げた。見下ろした彼の頬に、水滴がぽたりと落ちた。 「……ごめんね」 驚いたような困ったような表情を浮かべ、彼がベッドの上で上体を起こした。彼の肩口に顔を埋める。 「……ごめん」 繰り返した謝罪は微かに震えていて、縋る様に彼に抱きついた。 「……ごめん……ごめんね」 謝罪の言葉しか出てこない。伝えたい思いは奥底に渦巻いていて、でも言葉に出来るのは謝罪だけだった。 彼は振り払うことも怒ることもせず、ただ僕が泣き付くままにさせていた。 やはり彼はもう僕を見ることはないのかもしれないと、僕を見たと思った薄青い瞳は僕の姿を映しただけだったのだと、そう思い始めた頃、漸く彼が微かに動いた。 戸惑う様に細い指が髪に触れた。宥めるよな優しさで、一度だけ髪が梳かれる。 「……ポッター？」 酷く困惑した様な声音で名を呼ばれた。意を決して顔を上げると、薄青い瞳が困惑の色を湛えて僕を見ていた。 「……なぜ？」 彼が微かに首を傾げる。その動きに合わせて、白金の髪がさらりと流れた。その動きに一瞬気を取られ、それから僕は彼に視線を戻した。緊張に喉を鳴らし、ゆっくりと口を開く。 「後悔、したから……」 「……何故？」 そこで一度言葉を切って、彼は戸惑う様に視線を彷徨わせた。 「……君は……僕が嫌いだから……あんな……。だから、後悔なんて……」 しないだろう、と訊ねるように、伏せられた瞳が再び真直ぐに僕に向けられた。何の感情も表さない顔で、でもその表情がどこか諦めた様で、泣き出しそうに思えたのは何故なのだろう。 「初めは嫌いだと思ってた。だから、後悔なんてしないはずだった。でも、後悔したよ。今は、違うから……」 「……ちが……う？」 「うん。本当は嫌う程君の事を知らなかった。その事に気付いてなかった。だから、その事に気が付いて……後悔した」 ふと、僕を真直ぐに見ていた彼が小さく笑った。何故そんな泣きそうな顔で笑うのか、判らない。小さく喉の奥で笑うと、彼の顔から表情が消えた。 「……君にとって僕は、人形と同じだ。……だから、後悔なんてしない」 抑揚の無い声でそう言った彼の眦に、涙が溢れ、零れた。 頭から冷水を浴びせられた様な気がした。僕は彼に酷いことをしたと思っていた。抵抗し怯える彼が楽しくて、抵抗もしなくなった彼に苛々して、いつも自分のしたい様にしていた。感情を衝動という形でぶつける事で、僕は彼を傷付けていたのだと思っていた。 「……ごめん」 掠れたような声しか出なかった。声を出すわけでもなく、無表情に座っている彼を抱き寄せ、華奢な背を撫ぜる。 「……君にとって僕が人形と同じなら、僕が何を言っても、何をしても無意味だ」 そう呟く彼の声は微かに震えていて、微かな嗚咽の声が聞こえた。 僕は彼を嫌いだと思っていて、彼を相手にしない様にし、無視することで彼を苛立たせていた。そして、彼の意思を無視することで、僕は彼を傷つけた。 もし彼が、口が悪くもなく尊大な態度でもなかったら、僕は彼を嫌わなかっただろう。もし彼が、人形の様だったら。 ……最低だ。 「……人形と同じだなんて思ってない。人形みたいに綺麗な外見をしているのに、口が悪くてきついのが君だろう？ ハリー・ポッターなんて成績は良くないし校則は平気で破るし、名前だけ有名なただの子供だって。そんな風に公言して憚らない。それが、ドラコ・マルフォイだろ？」 宥めるように背を撫ぜて、柔らかい髪に顔を埋めた。体温が低くて、良い香りがして、とても綺麗な容貌をしていて、でも彼は人形じゃない。僕は人形のような彼を望んでいるわけじゃない。 「……人形は、僕を見てはくれないよ」 「……」 「悪態付いても莫迦にしても良いから。だから、僕を見て？ 僕自身を見てくれる人が減ってしまうと……寂しいよ」 彼の頬に両手を添えて、彼の顔を覗きこむ。戸惑った様な顔で数度瞬く彼ににっこりと笑って見せた。 「……君がマゾヒストだとは知らなかった」 「僕も最近まで知らなかったんだけどね」 漸くぼそりと返された言葉は彼らしくて、その内容にも関わらず僕は嬉しかった。笑った僕を見て彼が小さく笑う。その事が、本当に嬉しかった。 「だからさ、また喧嘩してくれる？ 口論して、対抗して……僕を見て？」 「……君が……」 「……え？」 微かな声が聞き取れなくて、俯いた彼の顔に耳を寄せる。 「……君が……僕を見てくれるのなら」 微かに彼の頬が色付いていて、呟きは本当に微かだった。短く、消え入る様な声。 僕は少し、彼の事が判った様な気がした。 無視されるのは、悲しいよね？ 見てくれないのは、寂しいよね？ 存在を認めてもらえないのは、とても、寂しい……。 大広間に入ると、そこは既に生徒で溢れていた。僕達が朝食に行くのは早くはなく、はっきり言ってしまえば何時もぎりぎりだから、それは珍しくない。 「だから早くって言ったのに……」 遅刻未遂の常習犯二人にご立腹なハーマイオニーにロンと二人で肩を竦めて見せて、僕達は空いている席を探した。その短い間に、授業じゃないんだし良いじゃないとロンが彼女に言い、そんなんだから何時も遅刻ぎりぎりなのよと怒られている。相変わらずの仲の良さにこっそり笑いながら、僕は空いている席に座った。 言い合いを続ける彼らの邪魔はしないで、そっと視線を巡らせる。目的の人物を見つけると、思い掛けず視線が合った。驚いた様に目を見開く彼に、にっこりと笑って見せる。戸惑う様に瞬いて、彼は急いで視線を逸らせた。耳まで紅い彼に、思わず笑みが漏れた。相手に由っては攻撃的で、苛々すれば突っ掛かり、恥ずかしければ真っ赤になる。実のところ、彼は素直だ。 「……楽しそうね？」 「良い事でもあった？」 一人で笑っている僕は、傍から見れば変だろう。何時の間にかじゃれるのを止めていたロンとハーマイオニーが、少し遠慮がちに僕の顔を覗き込んでいた。 「え？ うん。まあね」 誤魔化す様に肩を竦めた僕に、二人が顔を見合わせて、それから僕を見て笑った。 「そう。良かったわ。……最近、あなた沈んでるみたいだったから」 「相談してくれないのかなって思ってたんだけど。……もしかして解決した？」 二人の言葉に驚いた。知られていたことと、隠せていなかったことに。それでも二人が無理に聞き出したりはしなかったことに感謝した。そして、心配してくれていたことが嬉しかった。 「う……んと……ちょっとだけ未解決。でも大丈夫。……僕、頑張るから」 「そう？ 良く判らないけど……。頑張って」 「いつでも相談に乗るからね」 「うん。……今更ハーマイオニーに告白なんてっていう事なら、僕も相談に乗るからね？」 「ハリー！？」 こっそりとロンに耳打ちして、真っ赤になったロンを怪訝そうに見るハーマイオニーに笑って見せる。 「何？」 「秘密」 いたずらっぽく笑う僕から聞き出すのは諦めたのか、ハーマイオニーがロンに向き直る。何でも無いと首を振るロンの助けを求める視線をあっさり無視して、僕は視線を巡らせた。 奥底に存在する黒い塊は、それも確かに僕の一部だ。 僕という存在を形成する一部であり、性質の一端でもある。 それは衝動や渇望を促し、芽吹く日を待っている。 僕はその黒い種が芽吹いた後に起こり得る事を少しだけ知った。 深い後悔と、痛みと共に。 そして、僕はその黒い種の事を少しだけ知った。 その、穏やかな芽吹かせ方を……。 僕を見て。 僕に構って。 僕は、君が―――。 |
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これで『黒い種』は完結です。 ご感想など送って頂けるととても嬉しいです。 黒い種はハリー一人称で視点固定の話なので、当然ドラコさんが何考えているのかははっきりしません。 そういうつもりで書いたくせに更新作業をしていてつい、ドラコサイドの文を書いていた私…。 でもこれって蛇足…ですよね…（汗）。 蛇足でも読んでみたいという方はどうぞ。 ■ 黒い種 Ｓｉｄｅ Ｄ ⁄⁄ 2003.09.20 |