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僕は彼が出掛けそうな場所を知らなかった。本屋を探し、彼がよく封筒と便箋を購入している店を探してしまうと、後はもうどうすれば良いのか判らなかった。 今の彼にとっては母親の事だけが意味のある事で、その他の事は瑣末な事でしかない。 息を切らせて駆け込んだ本屋で、顔見知りの店員は一人で訪れた僕に珍しいと言って笑った。そういえば、彼は出掛ける時は何時も僕と一緒だった。買い物をする時は、何時だって一緒に行っていた。僕が知る限り、彼が一人で家から出た事など無かった。 僕は、彼が行きたい場所を知らない。 いくつもりの場所は、一つしか知らない。 何時の間にか降りだした雪が、石畳を白く染めていた。吐く息は白く、剥き出しの顔や手は寒さで痛いくらいだ。 凍死者でも出そうな寒さに、頭の中は不安でいっぱいだった。 杖を持っている魔法使いが、凍死する事はない。ただしそれは、その人物が凍死しないつもりがあればの話だ。 いつかもう一度偶然再会して、そして今度こそはっきりと伝えたい事を伝える。僕にはそんなことを期待など出来ない。 僕は、彼が地を這ってでも生きようとする意思を持っていないことを知っている。 「マルフォイ……マルフォイ……」 不安だけが増していき、思考がどんどん暗い方へと落ちていく。行動を起こそうにも、もうどうしたら良いのか判らない。僕は道端で立ち止まり、辺りを見回しながら弾む息を整えた。 ―――こんなことなら、伝えてしまえば良かった。 今更のように、僕は深い後悔に襲われた。僕は彼を必要としているのだと伝えていたら、彼は出ていかなかったのかもしれない。望まない方向に崩れるのが怖くて、いつまでも不安定な状態を保ち続けて、そしてその状態が崩れる時には既に手遅れだなんて、愚か過ぎる。 僕はこの四ヶ月、いったい何をしていたのだろう？ 許される時にだけ甘えて、望むばかりで、決して自分から手に入れようとはしなかった。 僕達の間にあった約束は酷く曖昧で、それなのに僕は、彼の律儀さを心の何処かで都合良く信じていたのだ。彼は、約束を果たすまではここに居るのではないかと。このままでいれば、何も崩れる事も壊れる事も無いのではないか、と。 ロンの言う様に、彼の示していたものが好意だったのだとしたら、僕は彼を失望させてしまったのかも知れない。……いや、きっと彼は僕に期待などしない。何にも、期待などしないのかもしれない。 どちらにせよ、きっともう遅い。 僕は、彼を探す術を知らない。 そして、きっと彼も、待っていてはくれない。 冷たい風が、体温を奪っていく。ただ立ち止まっている事が酷く怖くて、でも僕は何処に行けば良いのかもどうすれば良いのかも判らなかった。 色々な事を諦める事には慣れていたつもりだった。渇望しても、いつもそれらは手には入らなかった。でも僕は、手放す事には慣れていない。 きっと、ほんの少しだけ、僕は欲しいものを手に入れ掛けていた。 今更気が付いてももう遅い。子供の様に喚いても、きっと何にもならないのだろう。泣いたところで、何かが変わるわけでもないのだろう。 僕は、それでもそうしたくなる気持ちが初めて判ったような気がした。 大きく息を吸い込むと、冷えた空気が肺を一気に冷やした。 「ドラコ！！」 「なんだ？」 初めて呼ぶ名前に応えて、聞き慣れた声が背後から聞こえた。呆然と振り返る僕に、彼が首を傾げる。 「往来で人の名前を叫ぶな。みっともない」 「……ドラコ？」 「なんだ？」 「何、してるの？」 あまりにもいつも通りの彼に、力が抜けてしまいそうだった。コートを着て、寒がりの彼らしく手袋とマフラーもきっちりと身に付け、腕にはヘドウィグを連れている。雪で白く染まり始めた町の中で、白金の髪をした色素の薄い彼と真っ白なヘドウィグが、一枚の絵の様に立っていた。雪と同じように、白金の髪と純白の羽が街灯の仄かな明かりを反射している。 「何って……ヘドウィグが怪我をして帰ってきたから、獣医に見せに行ってきた」 あっさりとした返答に、その場に座り込んでしまいそうだった。纏まらない思考を抱えたまま、呆然と立ち尽くす。そんな僕を怪訝に思ったのだろう。立ち止まっていた彼が、僕の方に歩いてくる。 「……往来で泣くな。みっともない」 手袋をはめた手が伸びてきて、僕の頬を拭った。 彼の指が頬に触れた瞬間、僕の涙腺は壊れたらしい。眉根を寄せて、彼が僕の頭を引き寄せた。 「ヘドウィグなら、白いから血が目立っただけで大した事はないと言われたぞ？」 彼のその言葉を証明するかの様に、主人に居場所を取られた彼女が空へと舞い上がる羽音が聞こえた。どうやら僕達を置いて、先に家に帰る事にしたらしい。 「……うん」 僕はそれしか答えられなかった。涙腺は壊れたままで、彼の肩から顔を上げることが出来ない。 「良かった……」 僕が漸くそれだけ言うと、彼の手があやす様に僕の背を軽く叩いた。彼のその行動で、ますます僕の涙腺が壊れる。雪の舞う冬の日の冷たい空気の中、傍らの温もりが心地好かった。 ……初めて、僕は泣く事を心地好いと思った。 日が暮れている事が有り難かった。寒空で人通りが少なかった事も有り難い。 何とか涙が止まると、僕は意を決して顔を上げた。勢いを付けなければ、恥ずかしくて彼の顔を見られない。 「……帰ろっか」 「ああ。今日は冷える」 そう言って眉根を寄せた彼があまりにも彼らしくて、僕は安堵のあまり笑ってしまった。歩き出した彼に並んで、通りを歩く。 本格的に降り出した雪の舞う中、僕は家路に付いた。 彼と、二人で……。 家に着くと、僕は直ぐに部屋を暖めた。寒がりな彼の事だ。この寒い部屋では、コートも脱げずに震えそうだ。 彼は部屋に入ると、直ぐに窓に向かった。先に戻っていたらしいヘドウィグを室内に入れる。どうやら彼の使いをしているうちにすっかり懐いてしまったらしい。嬉しそうに窓から入ると、彼女は彼の腕に甘える様に止まり、室内にある止まり木まで連れて行ってもらっていた。 少しずつ部屋が温まっていくのに息をつき、コートを脱ぐ。同じ様に手袋を外し、コートを脱いでいる彼を見て、ふと、疑問が湧いた。 「それにしても、よく治療費持ってたね？」 彼は何時も殆どのお金を送ってしまうので、持ち金はない。使う当てもないので、何時もは不自由していない様だったが、今日はそうもいかなかった筈だ。 「ああ。ちょうど今日金が入ったばかりだったから」 事も無げに彼が答える。 ―――今を、逃すべきではない。 彼を見ながら、僕は無意識の内に口を開いていた。 「返して……」 「何？」 「手付けに払ったお金……返して……」 怪訝そうな声に、そう答える。 手を伸ばさなければ、欲しいものは手に入らない。隣で眺めていたのでは、きっと何時か本当に目の前から消えてしまう……。 「ああ、あれか……」 呟いて、彼が金の入った袋ごと僕に差し出した。金額は彼には些細な事らしい。そして、僕にとってもそれは同じだった。返してもらうという事に、意味がある。 受け取ったものに、自然と笑みが零れた。 「……気が変わったのか？ もう……いや、なんでもない……」 言って小さく笑った彼が何処か淋しそうに首を振る。楽しかった時間を名残惜しく思っている様に思えたのは、僕の願望なのだろうか？ 意識せずに、笑みが深まる。僕は手にしていた袋をテーブルの上に置くと、彼の傍に歩を進めた。そんな僕の行動に、不思議そうに彼が首を傾げる。 伸ばした手が彼の頬に触れ、彼の唇が微かに動く。僕は彼が何かを言う前に、その言葉を唇で遮った。触れるだけのキスに、彼が目を見開く。 「……好きだよ……僕は、君が好き」 一言一言を、大切に伝える。目を瞬く彼に笑みを浮かべ、今度は深く口付けた。彼の細い腰を引き寄せて、息をつく間もないくらいに貪り合う。彼の細い腕が背に回され、縋る様に服を掴んだ。 彼の膝が彼を支えきれなくなった頃、僕達は長いキスを終えた。苦しそうに息をする彼の額に口付け、彼を抱き上げて寝室のベッドの上に彼を降ろす。僕を見上げる彼の薄い色の瞳が、微かに不安そうに揺れた。 僕達は何時も、逃げ道を用意している。 心から望めば望むほどに、渇望すればするほどに。 自分が傷付かない様に、失望しない様に。 答えを得ないという道を。見ない振りをするという道を。思い込むという道を……。 本当は、僕は気が付いていた。彼の母親が、時折、もの問いたげに心配そうな表情を浮かべていた事を。きっと、彼女は知っている。知っていて、彼の為に言わない。 彼は、何かがないと立っていられない。 何かがなくなってしまったら、終わらせてしまえばいいと思っている。 だから、何も自分を傷付けない。どんな事も平気だと。 彼はきっと、そう思っている。 そのことを、きっと彼女も知っている。 僕は、彼女がそれを知っている事を認めたくなかった。彼にとって唯一意味のある存在の彼女が、彼の事を思い遣っている事を認めたくなかった。彼のことを判っているという事実を、認めたくなかった。 それを認めてしまったら、彼にとって僕は本当に必要ないのだという事を認めるような気がしていた。彼は母親以外の事に関心がないのだと言いながら、僕は心の何処かで違うと期待していた。自分だけが、彼が人に見せない部分を知っているのだと思いたかった。 僕だけが、彼の特別になりたかった。 ねえ、僕には、君が必要だよ？ 君にとって僕がどうであれ、僕には、君が必要なんだよ？ だから、終わらせるという道を、忘れてよ……？ 「好きだよ。僕は君が好き」 白い頬に触れ、白金の髪を梳く。小さく笑った彼に笑みを返し、啄む様に口付ける。白い額に、瞼に、頬にキスを落としながら、彼の衣服に手を伸ばした。 「僕は君が好き」 熱に冒された様に、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。首筋を辿り、鎖骨の上に痕を残す。胸から腹へとキスを落としていくと、彼が笑った振動が伝わった。 「君は、それしか言えないのか？」 白い肌から顔を上げると、可笑しそうにくすくすと笑う彼と目が合った。彼の白い手が伸びてきて、僕の頬を撫ぜる。冷たい手が頬から首筋ヘと滑り、それから彼の細い指先が僕のシャツの釦を外した。 ―――それが応えだと、思っても……？ 問う様に視線を向ければ、彼が小さく笑う。僕は笑みを返して彼の手を取った。 指先に、手のひらに、宝物にする様にキスを落す。 「……好きだよ……ドラコ……」 少し動けば触れそうな近さで囁いて、彼の瞳を覗き込む。目頭が熱かった。 「……だから、僕と一緒に暮らして？ 僕の傍に居て？ ……僕のものになってよ」 強請る様に額を彼の額に押し当てる。詰まった喉からは、掠れた声しか搾り出せなかった。 彼が目を細めて僕を見る。 「……そうだな。……それなら……」 穏やかな声と共に細い腕が首に絡みつき、そのまま引き寄せられた。促されるままに、彼の首筋に顔を埋める。彼の冷たい肌が、酷く心地良い……。じんわりと、僕の体温が彼に伝わっていく。 耳元で、ゆっくりと彼が息を吸い込む音が聞こえた。 「……それなら、僕が要らなくなったら。そうしたら、君にやろう」 そう言って、彼が笑った。 春待月の頃に。 僕はようやく、ゆっくりと歩き始める。 彼と、二人で……。 |
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