|
勉強熱心な友人の、振り下ろした杖の先に居合わせたのは不運なのか何時ものことなのか。 あっ、という驚愕の声が聞こえて、思わず閉じた目を再び開ければ、世界は大きかった。 - 子猫狂想曲 - 「ごめんなさいっ。直ぐに戻すわ、直ぐに。……調べてからだけど」 「にゃー」 「ハーマイオニー。君って才能あるよね……」 半ば疲れた様にそう言って、ロンが僕を抱き上げる。疲れた様に頷く僕に、ロンが同情するような顔をした。その実、犠牲者が自分ではなかった事にほっとしているのは表情から見て取れて、顔面に猫パンチをお見舞いすると、ロンがごめんごめんと苦笑した。 「直ぐに戻れるって、ハリー。ハーマイオニーに無理でもマクゴナガル先生に事情を話せばだいじょぶだって」 最早慣れてしまったのか、能天気なロンに憮然とした顔をして見せる。猫の顔で表情が作れているのかどうかは謎だけど。 「失礼ねっ。出来るわよっ」 眉根を寄せたハーマイオニーに、ロンが勿論信用してるよとかなんとか答えている。じゃれ始めた二人に、こりゃ時間が掛かりそうだと、机の上に座っていた僕は注意を引くためにロンの手を軽く叩いた。 「ハリー、なに？ 暇なの？」 すっかり無視状態だった僕に視線を戻し、ロンが訊く。こっくりと頷き、扉を顎でしゃくって見せた。ロンが暫し考える様に天を仰ぐ。 「ああ、判った。折角だしそのままうろついてくるんだね？」 「にゃー」 流石親友、と言ったつもりの声は、元気な鳴声にしかならなかった。まあ、それはともかく、不運に見舞われたのだから、それを少しでも楽しもうというのはなかなか前向きな考えだろう。優雅に尻尾を振ってテーブルから降りた僕は、気を付けてと手を振るロンに背を向けて談話室を後にした。 こうなって行く所といったら、勿論スリザリンだ。 普段は無視すればいいだとか構わない方がいいだとか言う割に、こういう事態になると発想はそんなものだ。この姿で忍び込めば、何か面白いものが見られるかもしれないし、弱みや秘密を掴めるかも知れない。 何だか双子に感化されている気がするけど……。 何処か浮かれてスリザリン寮のある地下に向かっていた僕は、ふと思い至った考えを喜ぶべきなのか悲しむべきなのか判らなかった。 ……所詮僕もグリフィンドール、ということにしておこう。 さてどうやってスリザリン寮に入り込もうか、と地下にあるスリザリン寮の入り口の前で座っていた僕は、やってきた三人組のタイミングの良さに思わず微笑んだ。勿論、猫の顔なので実際に笑っているかは知らない。 もしかしたら蹴られるかも、と微かな不安を抱きつつ、真中の、少なくとも僕の存在に気が付かずに蹴り倒して歩きはしないだろうと思われる人物の足に擦り寄った。 「にゃー」 不思議そうに立ち止まった人物に、とりあえず自己主張して可愛らしく鳴いて見せる。見上げる新鮮な視界で、彼は何時もの不快そうな顔をするでもなく、眉を顰めるでもなく僕を見ていた。 「お前、誰かの飼い猫か？」 細い指が伸びてきて、やんわりと抱き上げられた。小さく笑って腕に収めると、彼は両脇の二人に視線を向けた。 「誰か新しく黒猫を飼った生徒はいたか？ 新入生で黒猫を連れてきた生徒がいたかな……」 否定の形で首を振った二人を見て、彼が独り言の様に呟く。そのまま寮に入ると、談話室の壁の羊皮紙に目を向けた。無意識なのか腕の中の僕を撫でながら、彼が羊皮紙を上から下まで眺める。 「やっぱりいないな。……新しく飼ったのかな？」 呟きが頭上から聞こえた。 流石スリザリン。生徒のペットまで管理してるのか、とグリフィンドールとの差に驚きながら、僕は心臓がばくばく騒いでいるのを自覚していた。可愛いと、心地好いと思ってしまったのだ。 あの、ドラコ・マルフォイが笑ったからといって、可愛いと思うなんて！ あの、ドラコ・マルフォイに頭を撫でられて、心地好いと思うなんて！ 信じられない自分の感情に、頭の中がぐるぐる回っているような気がした。それでも腕の中から抜け出そうなんて考えは少しも浮かんでこなくて、それどころか僕は彼の胸に擦り寄っていた。 「お前、懐っこいな」 可笑しそうに小さく笑って、彼が僕の頭を撫ぜる。傍にいるクラッブとゴイルが何故かやれやれというように肩を竦めた。 「夕食までには寮から出した方が良いと思うよ」 「他の生徒に見付からない様にね」 「……お前達に言われなくても判っている」 マルフォイが憮然とした様子で二人を睨む。それに肩を竦めた二人を見て、もしかして何時ものことなんじゃ、と僕は思った。もしかして、マルフォイって猫好き……？ 「部屋に行こう」 腕の中の僕に律儀に声を掛けて、マルフォイが階段を降りて部屋に向かった。 寮の彼の部屋は綺麗だった。神経質なくらいにありとあらゆるところが整然としている。同い年の僕らの部屋とは大違いだ。とりあえずその辺に置いておく、等という考えは彼にはないらしい。机の上の教科書さえも綺麗に整って置かれていて、彼が神経質なほど几帳面なことが伺える。 ベッドの上に降ろされて、彼が僕の隣に腰を下ろした。ちょっと寂しいと思ってしまった自分が、なんだかなあ……。 「ワシミミズクも可愛いけど、猫がいれば夜暖かいだろうにな。なんで一人一匹しか駄目なんだろう」 そりゃ十匹も二十匹も飼われたら困るでしょ。 「お前の主人は何処の寮？」 グリフィンドール……かな。強いて言うなら……ハーマイオニー？ 普段いい様に扱き使われてるから。 そんなことを考えながら、彼の膝によじ登る。くすくすと笑って、彼が膝の上の僕を撫ぜた。 ああ、秘密を、弱みを調べにきた筈なのに。こうしてじゃれてるのが楽しいって、僕、変？ 擦り寄って、彼の顔を見上げる。 思いがけず彼の顔が近くにあって、心臓が跳ねた。 長い白金の睫。薄青い瞳。小さく笑みを浮かべた顔は、綺麗で可愛かった。 べたべたと擦り寄って、頭を撫ぜてもらって。ベッドの上でじゃれていると、ノックの音がして扉が開いた。 「ドラコ、やっぱり誰も黒猫新しく飼ってないって」 「他の寮の猫だよ」 「……そうか」 顔を覗かせたクラッブとゴイルの二人に短く返事をして、何処か残念そうに僕を見る。 「もう、夕食の時間だな」 小さく呟いて、マルフォイが僕を抱き上げた。 「ハリー、戻し方が判ったよ」 グリフィンドールの談話室の机に座り、僕は弾むような声の主に視線を向けた。どうしたものかと考えている視界の端で、無意識のうちに黒い尻尾が揺れていた。 「じゃ、ハリー。いくわよ」 懐から杖を取り出し、ハーマイオニーが本を抱える左手に力を込める。彼女が杖を振り上げた瞬間、僕は音もなく机を飛び降りた。 「ハリー？」 怪訝そうな声が頭上から掛けられる。友人二人を見返して、僕は首を振った。もうちょっと待って、とそう伝え様とした僕の口から出たのは、やはりにゃーという鳴き声のみ。僕を見下ろす二人が、訊ねる様に互いの顔を見合った。 「……もしかして、元に戻りたくないの？」 怪訝そうなロンの声に、こっくりと大きく頷く。流石親友。良く判っていらっしゃる。 「……悪戯？」 ハーマイオニーが眉を顰めた。僕は思わず首を傾げていた。悪戯、とは少し違うような気がする。目的は、多分悪戯ではない。 「えっと、とにかくもう少しそのままが良いんだね？」 「ハリー、一回で成功するとは限らないのよ？ 明後日までにはなんとかしなくちゃ」 心配そうなハーマイオニーの声。確かに、明日は休みだけど、明後日の授業までには元に戻らなくてはまずい。 「で、ハリー。遊びたいのは一時間？ 二時間？」 あまり深刻に考えてはいないらしい。そう訊ねるロンに、ハーマイオニーが渋面を作った。そんなロンに首を横に振って見せる。まさか明日まで、と訊ねるロンにこっくりと頷いてみせると、処置なしという様にハーマイオニーが嘆息を漏らした。 「知らないわよ？ 明日になって慌てたって」 不満そうにそう言うハーマイオニーに、僕は首を傾げて見せた。それから可愛らしく鳴いて見せる。 「……明日の正午までよ？」 伊達に付き合いは長くない。ハーマイオニーが猫好きなことは百も承知だ。 それに答えて再度可愛らしく鳴いて見せると、ハーマイオニーが悔しそうな顔をした。腹いせとばかりに両手で僕の頬を挟み、わちゃわちゃと些か乱暴に撫でる。 「とりあえず、出掛けるのは夕食取ってからにしたら？」 漸く開放された僕の逆立てられた毛を直しながら、ロンが苦笑してそう言った。 その提案に頷く僕の尻尾が、満足げに揺れていた。 二時間前に放された廊下で、僕はどうしたものかと座っていた。そうそうタイミング良く彼が来るわけがない。 スリザリン生が扉を開けたら入り込むかと腰を上げたとき、腰巾着二人が廊下を歩いてくるのが見えた。なんと言うか……日頃の行いがいいんだな。うん。 かりかりと入り口かと思われる壁に爪を立て、立ち止まった二人を見上げる。クラッブとゴイルが、困った様に顔を見合わせた。 「ドラコ」 小さくノックをしてから扉を開け、クラッブが室内に声を掛けた。自室だろうに、この遠慮の仕方に力関係を感じる。ほんっとにお付なんだな、この二人……。 声を掛けられて、机に向かっていたマルフォイが面倒そうに顔を上げた。それからクラッブに捕まっている僕を見て、小首を傾げる。 「入り口に居たんだ」 「どうする？」 伺う様に沈黙したクラッブの腕の中で暴れ、僕はするりと床に下りた。少し爪を立ててしまったような気もしたけど、そんなことはどうでもいい。 掛け寄って膝に飛び乗ると、マルフォイが嬉しそうに笑った。 「……ドラコ。ペットは一人一匹までだからね？」 「監督生とかに見付からない様にね？」 「……お前達に言われなくても判っている」 憮然とした顔で言葉を返したマルフォイは、僕をしっかりと腕に収めていた。 「お腹空いてるかい？」 覗きこんでくるマルフォイに、首を振って見せる。さっきしっかり食べてきたのでその辺は問題ない。まかり間違って、キャットフードを食べる羽目には陥りたくない。 「良かった。ここにはお菓子くらいしかないから」 マルフォイが安心した様に笑う。柔らかい笑みに、なんだかどきどきした。 先ほどの続きとばかりに彼の胸に擦り寄る。白く繊細な指が、柔らかく頭を撫でるのが心地好かった。 頭を撫でてくれる優しい手は、小さい頃からの憧れだった。行きずりの人が気まぐれに与えるそれが酷く嬉しくて、そんなことで喜ぶ自分が何処か惨めだった。 ダーズリー家でそれが与えられることなど、ずっと昔に無駄だと諦めていた。今更、欲しくもない。 勿論今なら、喜びを分ち合う友人がいる。でも、頭を撫でてもらうというのは今更な話だと思っていた。友人に頭を撫でられるのは間抜け過ぎる。 それがこんな形で与えられるとは思ってもみなかった。しかも、あのマルフォイから。今更ながら、別の誰かを引っ掛ければ良かったのかもと思った。例えば可愛い女の子だとか。 でも、何故かこの手は酷く心地好かった。 擦り寄ると嬉しそうに彼が笑う事が、嬉しかった。 僕が嬉しいのと同じように、彼も嬉しいのだという事が、嬉しかった。 暫くじゃれていると、僕をクラッブとゴイルに預け、マルフォイが入浴しに部屋を出ていった。 マルフォイから僕を受け取ったクラッブの腕から逃れ、マルフォイのベッドの上に戻り丸くなる。それを眺めてクラッブが肩を竦めた。 「まったく、動物好きなんだから」 「しょうがないよ。可愛いだけの動物なんて、ドラコ、飼えないもん」 「だよな。ドラコの父上、役に立たない動物なんか飼わせてくれないよな」 「……明日まで？」 「うん。明日まで」 諦めた様に苦笑を浮かべて頷き合う二人が、少し意外だった。 細い指が、頭を撫でる。見上げた僕を見返して、彼が首を傾げた。さらりと白金の髪が白い額を流れ、僕は跳ねる鼓動を誤魔化す様に彼に擦り寄った。 可愛い。非常に可愛い。 冷笑だとか、気だるい話し方だとか、辛辣な言葉の数々だとか。そんな冷たさを醸し出すものが鳴りを潜めると、彼はただひたすら綺麗で可愛い。淡い金髪が常とは違って下ろされているのが、それに拍車を掛けている。 伸び上がって彼の頬を舐めると、彼がくすくすと笑った。 「お前がいるから、今日は温かいな」 冷え性なのだろうか。細く白い指は、確かに冷たい。 ローブを着込んでいない彼は、とても華奢だった。普段から小柄だとは思っていたけど、両脇にいる二人は体格がいいから余計そう見えるのだと思っていた。しかし、それだけではなかったらしい。身長はさして変わらないのに、彼の方が僕よりも断然細い。 華奢な姿に。色素の薄い、何処か儚げな容貌に。とくりと心臓が跳ねる。 これは、保護欲なのかもしれない。 細い身体を腕に収めて。冷たい身体を温めて。彼が安心する様に、細く柔らかい髪を撫ぜ……。 そこまで考えて、はたと正気に返った。 しっかりしろ自分！ あれは、ドラコ・マルフォイだ。天敵の、ドラコ・マルフォイだ！ そう自分に言い聞かせる。危うく流されるところだった。 そう。あれはドラコ・マルフォイなのだ。すこぶるかわい……もとい。嫌味ったらしく、腹立たしい、天敵の……。 ふと顔を上げると、頭を撫でていた彼の手が止まっていた。 「……ポッター」 突然呼ばれた名前に、心臓が跳ねた。綺麗な声が、自分の名前を紡いでいる。一瞬うっとりとしてしまいそうになったが、直ぐに僕は正気に戻った。 もしかして、ばれた！？ 焦る僕にお構いなく、彼が小首を傾げた。跳ねる鼓動を抱えたまま、彼の次の行動を待つ。白く繊細な指先が、僕の額をなぞった。 「傷がある。ポッターと同じだな」 猫になってもしっかり傷は残っていたらしい。ほっとした僕の耳に、少し高めの澄んだ声が響いた。 「……まさかお前、ハリー、なんて名前じゃないだろうな？」 彼が小さく笑って僕の名前を呼んだ瞬間、身体中の血液が沸騰したような気がした。身体中の血管がどくりと脈打ったような感覚。 本能的に、僕はマルフォイの膝から飛び降りた。足がベッドに付いた瞬間、視界が歪み、頭の中が真っ白になった。反射的に目を閉じる。突然冷気に晒されたかの様に、ぞくりと肌が粟立った。 next |