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思いのほか力が込められていたらしい。カップを持った指が、苛立ちを押さえきれないままに音を立てた。 「どうしたの？」 滲み出す不機嫌さに驚いたのか、ハーマイオニーが目を見開いて僕を見た。 「な、何でもないっ。ちょっと、手が滑っただけ……」 誤魔化す様に笑って見せると、ハーマイオニーが眉を顰めた。 「そう？ ほんとに？」 「ハリー。君、最近苛々してない？」 ハーマイオニーに頷きを返そうとしている僕に、ロンまでもが遠慮勝ちに訊いてきた。表に出さない様に気を付けていたつもりだったのに、どうやらそれは無駄だったらしい。 「こんなに平和なのにさ。……何かあった？」 おどけた様に笑って、それから心配そうにロンが顔を顰めた。 「ほんと、平和なのに」 無理強いにならない様に気遣ってか、ハーマイオニーも軽い調子で訊ねてくる。 「特にこれといった事件も問題も起きてないし、しつこい誰かさんも最近は絡んでこないし」 「……そうだね」 にっこり笑って相槌を打った僕を、二人が伺う様に見ているのが判った。ハーマイオニーはもともと察しが良いし、同室のロンには夜抜け出しているのがばれていても不思議はない。 「今まで何にもないほうが珍しかったから。嵐の前の静けさっていうか……。なんかあるんじゃないかって勘繰っちゃうんだよね。この状況を満喫したほうが得なのにね」 嫌になっちゃうよ、僕って疑り深いのかな、と笑って見せる。偶にはこんな年もあるわよ、と笑うハーマイオニーに頷きを返し、そういえば君って面倒に巻き込まれ易いよねと納得するロンに酷いなあと笑って見せて。 君達の言う平和が不満なんだよ、と心の中で答えながら、僕は苛々の原因に思いを馳せた。 「今晩は」 そう声を掛けて押し上げたカーテンの向こうで、彼は侵入者を誰何することも、読んでいた本から視線を上げることもしなかった。 「何読んでるの？」 自分の存在に関心を払おうとしない彼にそう問いかけ、僕は彼の手から本を奪うとそれを枕元に放る様に置いた。本を支えていた白い手が、緩慢な動作で膝の上に置かれる。顔を上げない彼に焦れて、彼の細い肩を軽く押した。抵抗もなく、彼がベッドに横たわる。彼の白い顔の横に手を付いて見下ろすと、彼の瞳が漸く僕の方を向いた。細く柔らかな白金の髪が、白い額をさらりと流れる。その髪に指を差し入れ、表情がよく見える様に掻き揚げた。 苛々が、増していく。どうしようもないほどに。 「悪態付いて怒らないの？ 抵抗しないの？」 取り巻きを傍に置いて警戒することを止めた彼に近付く事は、透明マントを持つ僕には容易かった。 怒ることも、抵抗することも、怯えることさえも止めてしまった彼に触れるのはもっと容易い。 手触りの良い髪から冷たい頬に指を滑らせ、ほっそりとした顎の線をなぞる。人形のような容貌を持つ彼は、尊大な態度が鳴りを潜めると、酷く繊細だ。 人形のような彼の冷たい耳朶に唇を寄せ、くすりと笑みを漏らす。 まるで、僕が彼を虐めてるみたいだ。 「言葉、忘れちゃった？」 揶揄する様な囁きに、応えはやはりなかった。 彼はもう僕を見ない。 薄青い瞳は僕の姿を映し、でも、僕を見てはいない。 彼の眦に涙が溜り、白い頬を流れた。 何故、と問い掛けても、彼は応えてはくれないだろう。 彼はもう、僕を見ない。 苛々が、奥底に音も無く降り積もる。 何かに耐える様に膝の上で組まれた指が、酷く冷たい事を僕は知っている。 色素が抜け落ちたかの様に白い彼の肌は、今日はいつもに増して白かった。机の上に落とされた視線が、彼の今の状況を如実に物語っている。温度を感じさせない人形の様な彼の白い顔は、蒼白と言っても良いくらいで、喉元まで言葉が出掛かった。 「……ミスター・マルフォイ？」 黒板を使って説明をしていたスネイプが、怪訝そうな声音で彼の名を呼んだ。反応のない彼に近寄り、もう一度名を繰り返す。板書をノートに取ることもなく俯いていた彼が、弾かれた様に顔を上げた。 「……すみません」 授業を聞いていなかったことを咎められたと思ったのか、彼が細い声で謝罪した。 「医務室に行き給え」 「……はい」 漸く聞こえる位の微かな声で返事をし、彼が席を立った。音もなくゆっくりと歩く彼が脇を通る。 「誰か……」 スネイプが言い終わる前に咄嗟に腰を浮かせ、彼がくずおれたのを抱き止めた。 「医務室に連れていきます」 慌てて席を立った腰巾着二人と、駆け寄ったスネイプが何か言うより先にそう言って、僕はスネイプの目を真直ぐに見た。視線が合う。スネイプが推し量る様に僕を見、それに僕が視線を返す。腕に細い指が縋り付くのを感じた。振り払うことも無く、彼は僕に寄り掛かる様にして漸く身体を支えていた。 彼は、自分を支えているのが誰であるか気にもしていないのかもしれない。 彼は僕を、見ないのだから。 医務室へと続く廊下を歩きながら、彼の青白い横顔を覗き見た。歩くのだけで精一杯なのか、彼は何も言わずに歩を進めていた。 繊細さだけが、奇妙に目に付く。 尊大さや傲慢さ、意地の悪さは、繊細さを覆い隠していたのだと納得している自分に気が付いた。 彼が僕の存在を意識から追い出してしまってから、彼はそれを除いては何時もと変わらない態度で過していた。もっとも、彼が僕に絡んでくるのは既に生活の一部といっても良いほどに習慣化していたので、それが無いだけでも不自然と言えば不自然だったのだけれど。それでも、彼が浮かべるグリフィンドール生に対する冷笑や、普段の無表情は決して変わらなかった。 何かが変わってしまったのだと知られたくないのだろう彼が、それを隠しきれないのは繊細さの表れなのかも知れない。 華奢な彼の白い手首の細さに、背筋を冷たいものが流れた様な気がした。 彼が大広間に姿を現さない日が増えていることに、僕は気が付いていた。そしてそれが、どんな日であるかも。 冷たい何かが背筋を駆け巡る。 奥底に静かに存在する苛々と共に、何かが這い上がってくる。 「……食事はきちんと取っているの？」 マダム・ポンフリーの心配そうな声が聞こえた。具合の悪い生徒に答えさせる気は無いのか特に答えを気にするでもなく、ローブを壁に掛けてベッドの周りのカーテンを引き、彼女は僕に穏やかな視線を向けた。 「彼は暫く休ませますから。ご苦労様でした、ミスター・ポッター。あなたは授業に戻って良いですよ」 彼と僕の相性の悪さは、マダム・ポンフリーも勿論知っているのだろう。反目している彼を僕が医務室に連れてきたことを誉める様に、彼女が穏やかに微笑んだ。 罪悪感、とでも言うのだろうか。酷く居心地が悪い。 「……はい」 小さく答え、僕は医務室を後にした。 僕は彼を嫌っていた。 彼の態度には腹が立ったし、いちいち突っ掛かってくるのには苛々した。 何もかもが最悪な彼の唯一僕が嫌っていない所は、強いて言うなら人形のような容姿だけだった。彼が綺麗な外見をしているということは、否定できない。しかし、寧ろそれは誉めるようなことではなく、最悪な性格をしている彼がとても綺麗な外見をしていることを不公平だと思っていた。 だから、彼を傷つけることに惑いなど無かった。その方法が、多少なりと彼の容姿に影響されていた事は否定しない。でもそれは、当然の報いだと。 でも、今は……。 大広間でぼんやりと食事をしていると、正面に座っていたハーマイオニーが、そう言えば、と僕を見た。 「正直、驚いたわ」 「何が？」 顔を上げて首を傾げた僕の代わりの様に、隣に座っているロンが訊ねた。 「マルフォイのこと。……こう言っては何だけど、私、あなたはマルフォイが倒れてもざまあみろ、くらいにしか思わないと思っていたの。あ、勿論、相手は具合が悪いんだから、ハリーのやった事は良いことだと思ってるのよ？」 「あー、僕もそう思った。実際、何で支えてやるのさって思ったし。あ、でも、相手は具合悪いんだし、そういう場合じゃないってすぐに思ったよ？」 焦った様に言い訳するロンに、判っているわよという様に、ハーマイオニーがくすりと笑う。それから視線を僕に戻し、ハーマイオニーが肩を竦めた。 「でもね、意外だった。あなた、マルフォイの事嫌ってるでしょ？ 何時も面倒そうに相手してたし。視界に入れるのも厄介だと思っているのだとばかり……」 「でもそれは仕方ないよ。何時も喧嘩売ってきてさ、あいつ嫌味しか言わないし。無視して関わらないのが一番だって。ね、ハリー？」 「……僕、無視してた？」 「ええ。だって何時も彼が一方的に突っ掛かってくるだけだし。……どうかした？」 「えっ、ううん。何でも無い」 誤魔化すようにそう言って、僕は食事を再開した。ハーマイオニーとロンが、困惑気味に視線を合わせている。でも僕は、それ以上何も言えなかった。 穏やかに微笑んだり、小さく笑ったり。そんな表情が出来るなんて、思ってもみなかった。 今の彼は僕が見ていても気に止めない。だから今、大広間で眺める彼は、恐らくそれが普段の表情なのだろう態度を時折覗かせている。尊大な態度や蔑むような物言い、そんな苛立つ態度でなければ、あの人形の様な綺麗な容姿だ。きっと嫌ったりはしなかっただろうに……。 彼の顔色が酷くない事にどこかほっとしている自分に気がついて、それを認めてしまったらなんとなくすっきりしたような気がした。雪の様に降り積もった理解できない感情が、氷解していく。多分僕は、その感情を認めたくなかったんだ。 スネイプに話し掛けられ、彼は大人に構ってもらって喜ぶ子供の様に表情を綻ばせ、普段は見せない笑顔を見せている。どこか幼く思えるその態度に、そう言えば彼は自分に突っかかってくるときも幼稚さが抜けないようなところがあったと思い出した。 どこかアンバランスで、彼は感情表現が幼いのかも知れない。 話しているとこちらが不快になるような、そういう人間だと思っていた。性格も根性も最悪で、関わり合いになれば苛立つだけだと。だから僕は、いつだって彼を見なかった。だから僕は、いつだって不快そうな顔を向けていた。 僕は彼の事を知らなかった。 僕は彼の事を、知ろうとしなかった。 相手にされなくて、苛々した？ 無視されて、苛々した？ 今となっては訊けない言葉。 彼はきっと応えてはくれない。 そして僕は、それを何故とは言えない。 僕はとても、苛々したよ。 そして、今は……。 next |