忘れろ、と強く思った。しかし、そう考えることは記憶の反芻を促し、奥底に沈めていた記憶を鮮明に浮かび上がらせるだけだった。 　ドラコは本を抱えている腕に力を込めた。無意識のうちに唇を噛んでいたことに気が付き、忌々しげに軽く頭を振る。 　気分が悪い。吐き気が、治まらない。 　スリザリン寮に入ると、ドラコは真直ぐに自室に向かった。数人が談話室にいたが、ドラコの顔色が優れず纏う雰囲気が不機嫌さを醸し出していた為、誰もが声を掛けるのを躊躇した。経験から、体調の優れない時のドラコに話し掛ける事は彼を煩わせるだけだと皆知っている。 　遠慮がちに向けられる視線には頓着せず、ドラコは自室に入ると持っていた本を机の上に置き、そのままベッドに沈み込んだ。 　手首が、首筋が、ぞくりと粟立つ。 　込み上げる吐き気に、ドラコは固く目を閉じた。手首が熱を持っている様な気がする。右の手首に左手を添え、ドラコは細い手首に爪を立てた。感覚が、一瞬痛みに支配される。 　―――綺麗な肌だ。 　耳の奥で、柔らかな声が響いた。 　ドラコは左手に力を込め、意識を痛みに向けようとした。込み上げる吐き気に、目が潤む。 　何故、忘れられないのだろう……？ 　ドラコは右の手首から左手を離し、緩慢な動作で起き上がった。ちょうどその時、小さくノックの音がした。その音に顔を上げると、クラッブが遠慮勝ちに室内を覗き込んでいた。 「もう直ぐ夕食の時間だよ？」 「……僕は要らない」 　抑揚の無い声で答えるドラコにクラッブは僅かに逡巡し、それから静かに、そう、と答えて扉を閉めた。長い付き合いで、こういう時は放っておいて欲しいのだと判っているのだろう。 　静寂の戻った室内で、ドラコはゆっくりと呼吸を繰り返した。扉の外で、大広間に向かうのだろう生徒の声がする。やがてその音も消えた頃、ドラコはゆっくりと立ち上がった。そして洗面台の前に立ち、胃の内容物を吐き出した。 　腕が、動かない。 　闇に呑まれている己の右手をドラコは懸命に引いたが、強い力で掴まれた手はびくともしなかった。視線の先に見える腕は奇妙に小さい。しかし、幼子の腕に違和感を覚えることはなかった。ドラコには、その余裕がなかった。余裕があれば、自分が幼子の姿をしているという不自然さに気が付くことが出来たのかもしれない。 　辺りは静かな闇に包まれていた。四方から迫る闇は、いずれは腕だけではなく全てを呑みこんでしまうだろう。背筋をぞくりと悪寒が走った。押しつぶされるような不安と恐怖に、ドラコは眦に涙を浮かべ、大きく息を吸い込んだ。だが、助けを求める言葉は声にはならなかった。喉が引きつったかの様に声が出ない。 　―――情けない。 　耳の奥に、温度の感じられない声が響いた。それは低く冷たく、何処か侮蔑の響きが篭っていた。 　ドラコは悲鳴を飲み込むように堅く口を閉じた。手首を包む闇は生温かく、今にも這い上がってくる様に思える。ドラコは唇を噛んで声を押し殺した。四方の闇は緩慢に距離を縮めて迫ってくる。じっとりと這い上がってくるような恐怖に、ドラコはその場に蹲り、声を押し殺して堅く目を閉じた。 　弾かれた様に目を開けると、落ち着いた暗緑色が目に入った。 「……ゆ……め……？」 　小さく呟き、ドラコは右手を持ち上げた。 　地下にあるスリザリン寮では、魔法によって作り出された明かりが常に室内を照らしている。音や光をある程度遮断する寝台のカーテンは、常夜燈の微かな明かりの進入を許していた。月明かりにも似た微かな明るさの中で、ドラコは持ち上げた己の手を見上げた。白く細い手は、何時もと何の変わりもない。緩慢な動作で身体を起こすと、ドラコは小さく息をついた。膝を抱え、顔を埋める。微かに身体が震えていた。 　情けない、と言う冷たい声は、父のものだ。 　ドラコが幼い頃、静寂に包まれた自室の闇が酷く恐ろしく、衝動に駆られて裸足で両親の元に掛け込んだ事があった。珍しく家に居た父は、その様子に微かに眉を顰めた。 　暗闇に怯えるなどということは、マルフォイ家の者にはあってはならない。 　情けない、という父の呟きでそれを理解したドラコは、同じ事は繰り返さなかった。父が情けなく思うようなことは、してはならない。何事も、自分で解決しなくてはならない。父の手を借りるのは、明確な要求があり、それを説明出来るようになってからだ。漠然とした要求ではならない。 　怖いから何とかして欲しい、などという求めは、マルフォイ家の人間には相応しくない。 　自然と浮かんだその考えに、ドラコは眉を顰めて小さく首を振った。 　―――違う。怖いのではない……。ただ、不快なだけだ。 next

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