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無意識にか手首を擦っているドラコに、ハリーは眉を顰めた。ハリーが紅茶を入れている間に、彼は空中に視線を向けて考え込む様にしている。ふと、ハリーはドラコが肌に爪を立てたことに気が付き、ティーポットを些か乱暴にテーブルに置いてドラコに歩み寄った。 「ドラコ！」 鋭い声に、ドラコが弾かれた様に顔を上げた。それから慌てたようなハリーの様子に、不思議そうに首を傾げる。 「何だ？」 「手、傷付いちゃうよ」 ハリーの視線を追って、ドラコが自分の手に視線を落とした。今気が付いたというように、ドラコが爪を立てていた手を離す。ハリーが心配そうに手を差し出すと、ドラコが見せる様に右手を乗せた。 「どうということはない」 「……傷、付いちゃうよ」 小さく呟いて、ハリーがドラコの右手を大事そうに包み込んだ。白い肌についた爪痕を撫ぜ、ゆっくりと口付ける。 ハリーは不用意に彼に触れた名前も知らない上級生に、怒りを覚えた。多分、この行動はあのときのことが原因だ。手を弾かれていい気味だとも思ったが、そもそも彼に触れるなど許し難い。 「ポ、ポッター！」 「え？」 狼狽したような声に、ハリーは我に返った。真っ赤な顔をしたドラコを見、再度手首に視線を落とす。 「ご、ごめんっ」 ハリーは慌てて手を離した。その顔は、ドラコに負けず劣らず真っ赤だ。 「ごめんね。僕、ぼーっとしてて……嫌だった？」 おずおずといった様子で窺う様に見ると、ドラコが戸惑う様に視線を彷徨させた。ローブの袖を直して晒していた白い手首を覆い隠し、所在無さげにテーブルの上の紅茶に手を伸ばす。 「……別に」 紅茶を手にし、目を伏せたままドラコが呟いた。その顔はやはり真っ赤なままだ。 ハリーは口元が緩むのを止められなかった。彼は自分が触れることに嫌悪を示さなかった。真っ赤になっている様子は寧ろ羞恥の所為だろう。 ―――最初にキスしてくれたのは彼の方なのに。 酷く狼狽しているドラコの様子に、ハリーは零れそうになる笑みを堪えた。こういう時の彼は、とても可愛い。普段の傲慢とも取れる強気な態度や冷たさが不思議なくらいだ。 もしかして、寧ろ嫌われていると思っていたからこそあんなことが出来たのだろうか？ 彼は時折窺うような、何処か不安そうな様子を見せる。その度に笑って見せると、安堵した様に息をつく。僕が彼を嫌ってはいないことを、今は判ってもらえたのだろうか。今は彼に嫌われてはいないのだと、そう思っても良いのだろうか。 今なら、触れることが不快だけをもたらすものではないと判って貰えるかもしれない。親愛の情を示すこともあるのだと、判ってもらえるかもしれない。 ハリーは緊張に喉を鳴らした。手を、伸ばしても大丈夫だろうか？ それとも、自分は急ぎ過ぎているだろうか？ 「……以前に」 暫くの沈黙の後、ぽつりと零された呟きに、ハリーは伸ばしかけた手を強く握った。どうやら思った以上に長い時間迷っていたらしい。ドラコはそんなハリーに気が付いた様子も無く、視線をカップに落としたままだった。話を聞くという意思表示に、ハリーは静かにソファーに腰掛けた。 「……以前に君は、触れることが不快なばかりではない、と言っただろう？」 「うん」 「昔……小さい頃にそう思ったことがあったよ」 目を伏せたまま、ドラコが紅茶のカップをテーブルに置いた。微かに口の端を上げて、自嘲とも取れる笑みを形作る。やはりハリーの方は見ず、視線はカップの上に止めたままだった。 「小さい頃は家庭教師が僕の面倒を見ていた、と言っただろう？ 雇われる家庭教師は皆優秀で、父上の意に沿わない場合は直ぐに挿げ替えられると言われなくても判っていた。でも、家庭教師の中にも少し変わっているのが居て、その教師は誉めるときに頭を撫ぜたり抱き上げたりする人だった。……父上は、そういう事は必要無いとお考えだったから、それまで僕はそういう経験が殆ど無くて……だから……嬉しかった」 「……その人はどうしたの？」 そういう人物がずっと居たのなら、彼が触れることを不快だと思うことも無いだろう。嫌な予感に、ハリーは眉を顰めた。緊張に心拍数が上がっていく。 「解雇した。僕が、彼はマルフォイ家の家庭教師としては相応しくないと父上に言って」 淡々と言って、漸くドラコが顔を上げた。無表情にハリーの顔の上に視線を止める。 「……どうして？」 訊いてはいけないような気がした。ドラコが思い出したくない記憶は、多分これだ。微かに迷うようにドラコが視線を逸らした。それから徐に立ち上がり、ハリーの後ろに立った。意図が判らずに、ハリーは目線だけを彷徨わせた。振り向いても良いものか、判らない。 「……彼は言ったよ」 言葉と共に、ドラコの冷たい手がハリーの首筋に触れた。釦を外し緩めているシャツの襟から、ドラコの指が入り込む。冷たい手が、肌の上を滑った。ぞくり、と肌が粟立つ。感じた何かは、嫌悪ではない。顔の熱が高まった。吐息が肌に掛かり、ハリーは固く目を閉じた。見えないからこそ、余計に鼓動が跳ねてしまう。 小さな音を残して、ドラコの唇がハリーの項から離れた。 「……綺麗な肌だって」 漸く振り向くと、薄青い瞳と視線があった。自分の顔を覗き込む色素の薄い瞳が、微かに揺れている。淡々と話す声は、微かに震えていた。 ―――ここで間違うわけにはいかない。 彼は安心したくて確かめている。自分に話したのは話してみたいと、安心したいと思ったからだ。彼は、恐る恐る境界線の内側に、自分を入れようとしているのかも知れない。彼を傷付けるものを近付けない為の、その線の内側に。 ―――間違うわけには、いかない。 鼓動が煩いくらいに跳ねた。緊張に手が汗ばむ。殊更に柔らかい声が出るように心掛けて、ハリーが口を開いた。 「……僕も、実験して良い？」 微笑んで、ソファーから立ち上がる。身振りでソファーに座る様に示すと、ドラコは戸惑った様子で、それでも促されるままに腰を下ろした。 「嫌だったら直ぐに止めるから」 確認する様に顔を覗き込むと、ドラコが微かに頷いた。ハリーはドラコの横に立つと、肘掛を挟んで僅かな距離を保ったまま、ドラコの身体を引き寄せた。肩を引かれたドラコが反射的に身体を強張らせる。自分の胸に頭を寄り掛からせ、ハリーはドラコの身体に回した指を、これ以上は動かさないと示す様に組み合わせた。 石像になったかの様に動きを止めて、ハリーはドラコの様子を眺めた。動きを止めた身体は、心臓だけが変わらず激しく鼓動している。胸に耳を当てているドラコには、煩いほどに跳ねた鼓動が伝わってしまっているだろう。 見下ろした先で、ドラコがゆっくりと目を閉じた。微かに擦り寄るような仕草を見せて、身体の力を抜いていく。迷うように動いた左手は、結局ハリーのローブを掴むことなく下ろされた。 ハリーと同じように、ドラコも身動ぎ一つしない。段々と、跳ねる鼓動が治まっていく。 ―――ああ、そうか。彼はきっと、怖かったんだ。 不安そうに揺れていた瞳は酷く頼りなく、ハリーはドラコを安心させてあげたいと思った。 きっと彼は、好意を持っていた相手の理解できない行動が、怖かったのだ。それを認めない事で自分を守らなければならないほどに。そして、幼さがその恐怖に拍車を掛け、矜持がそれを内側に押し込めた。 どうして誰も、彼に大丈夫だと言ってあげなかったのだろう？ どうして誰も、彼を安心させてあげなかったのだろう？ 安堵する様に自分に寄り掛かるドラコに、ハリーは目を細めた。 渇望していた感情が、ゆっくりと満たされていく。それは庇護欲と、独占欲なのかもしれない。 ―――僕はずっと、僕に属するものが欲しかったんだ。 強く抱きしめたくなる衝動を、ハリーは懸命に押さえた。彼は自分の独占欲を、どこまで許してくれるだろうか。 彼との間にある安心させる為の僅かな距離と、動かしてはいけない自分の指。そしてローブに触れることの無かった彼の指が、間に残る距離を示している。しかし、その距離を縮めることは出来る筈だ。触れることも叶わなかった自分が、今、こうして彼に触れている様に。境界線の外側にいた自分が、ゆっくりと時間を掛けて内側に入れた様に。 ―――僕は、彼が欲しい。 ハリーは腕の中の存在を感じる様に、ゆっくりと目を閉じた。 next |