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あの界隈に足を踏み入れたのは、ほんの偶然からだった。 - 春待月の頃に - この魔法界では、暖炉さえあれば何処に住んでいたところで変わりはない。だから夏のある日にふと思い立って、僕は一年ほど住んでいた一軒家から、雑然とした町のフラットに移り住んだ。 必要最低限のものだけを持って越した先は、以前住んでいた一軒家に比べればとても狭かった。でも、僕にはそれで十分だった。階段下の物置に比べれば、広いくらいだ。 そこで暮らすようになってから、僕は近所を散策するのが趣味になっていた。休日には、少し足を伸ばして町の雑踏の中を歩く。何をするわけでもなく、また、自分が何の為にそうしているのかも考えずに。ただ何となく、というのが、その頃の僕の気持ちだった。 移り住んで一月が過ぎた頃、何時もとは逆の方向に足を伸ばしてみたのは、ほんの思いつきからだった。退廃的な空気の漂うそこは、日が沈めば更にその色を濃くするのだろう。冷めた目が向けられ、値踏みするように視線が付き纏う。何も知らずに足を踏み入れれば、良いカモにされるのだろう。何時でも杖を取り出せる様にと身動ぎすると、壁に寄り掛かって立っている少年が可笑しそうに喉の奥で笑った。その様子を見て、僕は莫迦莫迦しさに気が付いた。そうまでして、この界隈に用はない。 自分のしている事の愚かしさに小さく笑って、家へ帰ろうかと考えたその時、視界の端に入った人物に僕は目を見開いた。 目を惹く白金の髪も、作り物のように整った容貌も、記憶の中の彼と寸分の変わりもないように見えた。いちいちの所作の優雅さも失われることはなく、ただ、彼の纏う空気だけが以前とは違っていた。張り詰めたような神経質さはそこにはなく、空気の中に溶け込んでしまいそうなほどに冷たさも暖かさもない。彼が持っていた、それがどんな類のものであっても、強さだと思えたものがなくなってしまっているように思えた。例えそれが、弱さと対になっているものであったとしても、あれはある種の強さだったのに……。 身形の良い紳士風の人物と二言三言言葉を交わし、その人物が立ち去ると彼がゆっくりと振り返った。僕の姿を認め、微かに驚いた風を見せる。僕が歩を進めて彼の前に立つと、彼が口の端を微かに上げた。 「……久しぶり」 「これはこれは、ハリー・ポッター」 そう言った声には以前の様な冷たさはなく、何処か面白がるような響きがあった。僕はどう反応を返して良いものか判らなかった。そんな僕を見て、彼がくつくつと喉の奥で笑った。 近くで見た彼は、変わっていないわけではなかった。以前から華奢だと思っていた体躯は、今は寧ろ痩せ過ぎだと心配になるくらいで、裕福さと神経質さを醸し出していた見目には何処か疲れた様子がある。その視線には、僕に対しては常に向けられていた意思の強さがなくなっているように思えた。時折、微かに何処か虚ろな風を見せる。 「君にこんなところで会うとは思わなかった。……君はそういう趣味があったのかい？」 言って、また可笑しそうに笑う。 ……彼はこんなに笑う人間だっただろうか？ そう考えて、彼が以前と変わらないわけはないのだと思い出した。彼は、多くのものを失ったのだ。いや、奪われたと言った方が正確なのかもしれない。 魔法省は、彼から情け容赦なく土地も富みも奪った。父親の咎を理由にして。 「まさか用があるわけではないのだろう？ 僕は失礼する」 「待って！」 咄嗟に掴んだ手首は、酷く細かった。その事実に、奇妙に胸が痛む。僕は彼が、嫌いだというのに。 掴まれた腕から視線を僕の顔に戻し、促す様に彼が小首を傾げた。 「あの……時間、ない？ お茶でも……」 何故そんな言葉が口を衝いて出たのか判らなかった。嫌いあっていた相手の変わり様に驚きその感情を忘れたのか、それとも今の彼に憐憫でも覚えたのか。……いや、少なくとも後者ではない。彼はそんな風ではなかったのだ。現状はそれに相応しく思えるにも関わらず……。 「……僕の時間は高いけど？」 「え？ いくら？」 小さく笑った彼に、僕は思わず訊ねていた。それに少し考える様子を見せて、楽しげに彼が答えたのは、つつましく暮らせば何年かは暮らせるのではないかと思えるような金額だった。 「何それ。高過ぎ。ちょっとお茶飲んで話をするだけでその値段？」 色々な意味合いを冗談にしようとする様に笑って見せた僕に、彼が肩を竦めた。 「別にしてもいいけど。君にはそういう趣味はないと思っていた」 そう言って、からかう様に喉の奥で笑う。 ああ、やはりそういう事か、と思った。 富を失い、その名を忌まわしいものとされて、まともな職を得られる筈もない。その状況で、どう生きていけというのだろう。命を奪わなかった事がせめてもの情けだと嘯いた魔法省に虫唾が走った。 今の魔法省なら、もう少しましな事をしたはずだ。結局はその腐敗振りが露見した魔法省は、体質の改善を余儀なくされたのだから。そしてそのために、僕はホグワーツを卒業後に魔法省に入ったのだから。そうであって欲しい。 「近くに住んでるんだ。ちょっと寄ってお茶でも飲んでいかない？」 お願いする様に彼を見ると、僅かに逡巡した後、少しならと彼が頷いた。 「狭いな」 部屋に案内して、まず彼が発した言葉がそれだった。それは以前のような嫌味ではなく、単なる感想の様だったけれど、あまりの彼らしさに笑いが零れた。 「まあね。その辺座ってて。お茶淹れるから」 言ってソファーを指差す。彼は部屋を一瞥するとソファーに腰を下ろした。 「君の事だから、もっとごちゃごちゃしているかと思っていた」 「越してきてそんなに経ってないから。ここには寝に帰ってきてる様なものだしね」 「ふうん」 さして興味がないのか、彼は小さく呟くと、僕が差し出したカップに手を伸ばした。封も開けずに置いたままになっていたクッキーの缶を手に、彼の正面のソファーに座る。 「そういえば、ここに越してから初めての客が君っていうのも、不思議なもんだね」 「……ウィーズリーは？」 「ちょっと前に子供が生まれたから」 そう言って肩を竦めて見せる。彼はそれで判ったとばかりに微かに目を細めた。 「クッキー、どうぞ」 「ああ」 缶を開けて、彼に差し出す。そこで会話が途切れた。僕は彼に、彼のことを訊ねても良いものか判らなかったし、久しぶりに会った彼はとても無口だった。 学生の頃は割合に話す方だと思っていたけど、良く考えてみると、嫌味や皮肉でしか会話をした記憶がない。 目の前の彼は、訪れた沈黙を苦痛に思ってはいないようだった。寛いだ風に優雅にソファーに腰掛けている。ある意味では、彼は変わっていなかった。人形のような作り物めいた容貌は一年前のままだ。ただ、白金の髪だけは以前より伸び、黒いリボンで纏められて白い項の上を流れている。 何故だろうと不思議だった。 この一年、彼は色々なものを捨てなければ生きてはいけなかった筈だ。それなのに何故、そういった人間の持つ地を這ってでも生きようとする、いわば生き意地の汚さとでも言うようなものが、彼からは感じられないのだろうか……？ 事実、彼は荒んだとも言える生活をしているのではないか。そして、そうしてでも今生きているということは、彼が生きる方を選んだということだ。 僕は生きていくのにぎりぎりな生活を知っている。そこで得られるものは少なかったが、生き意地の汚さだけは身に付いた。成人してあの家を出ることだけを支えにして、子供の頃を過してきたのだ。 なんだか、負けたような気がした。 勝ちたかっただとか、悔しいだとか思ったわけではない。ただ、何故、と思った。何故彼は……。 「僕はもう行く」 突然静寂が破られ、僕は弾かれた様に顔を上げた。 「もう？」 「少しと言っただろう？」 当然と言わんばかりの彼の態度に、僕は反射的に口を開いていた。 「泊まっていかない？」 「……僕は忙しい」 そう答えた彼は、訝しげな表情を浮かべていた。それはそうだろう。知り合いだといっても、僕と彼は馴れ合うような間柄ではなく、むしろ反目しあっていたのだから。そして、僕も口を衝いて出た自分の言葉に驚いていた。 「……僕は高い、と言った筈だけど？」 「いいよ。人恋しい気分なんだ。話に付き合ってよ」 僕の思考を無視して、僕の口が言葉を紡ぐ。彼と何を話すのだとか、何の為にだとか、頭の中では冷静な声がする。 彼は不思議なものを見る様に僕の顔を見て、それから肩を竦めてもう一度ソファーに腰掛けた。 彼が一瞬戸惑うような表情を見せたのは、何故だったのだろう……？ 「ロンとは同僚なんだ。魔法省も、大分人が入れ替わったよ」 魔法省の話など彼は聞きたくないのかもしれないとも思ったけれど、僕には話題がなかった。ロンとハーマイオニーが卒業後直ぐに結婚しただとか、そういうことしか僕は話すことが出来ない。自分の事を話すのは苦手だった。だから、特定の誰かが出来ないのかもしれない。ハリー・ポッターを求められるのも煩わしく、ハリーを晒すことも出来ない。 料理を作りながら話す僕に、彼は気のない返事をし、ワインのグラスを傾けた。当たり障りのない話も尽きて沈黙の中で彼を見ると、彼はさして沈黙を気に留めてはいないようだった。 学生の頃の彼は、僕の一挙手一投足に嫌味や皮肉を言わないと気がすまないのではと思える様な行動をとっていて、それを僕はとても腹立たしく思っていた。しかし、今の彼は僕に対して特に興味も関心も抱いていない様だ。 やがて沈黙のうちに食事を終え、シャワーを使うかと彼に訊くと、彼は迷いもせずに頷いた。 「僕の服だけど、良かったらどうぞ。……寝間着とか着替えなんて、持って来てないよね？」 「持っていないこともないが……」 言って、隣に置いていたローブのポケットから小さな箱を取り出す。どうやら魔法で小さくしているトランクらしい。それを手のひらの上で転がしながら少し考える様子を見せ、彼が顔を上げた。 「洗濯が面倒だから、借りる」 「面倒って……」 「ハウスエルフがいないと、面倒なものだな」 そう言って渋面を作った彼に、僕は思わず噴出してしまった。相変わらず生活感のないように見える彼が言うと、洗濯がまるで別のものの様だ。僕のを借りるということは、僕をハウスエルフの代わりにするということかとも思ったけれど、あまり彼が洗濯を厄介なことの様に言うので可笑しくなってしまった。 「これなら僕が洗うから、どうぞ。良ければ今着てるのも置いといてくれれば洗うけど？」 小さい頃の慣れのお陰か、僕は別に家事が苦痛ではない。そう申し出ると、少しほっとした様に彼が素直に頷いた。 彼が入浴している間に、ベッドを整える。客用の寝室なんてここにはないから、僕はソファーででも寝るしかないだろう。あの、ドラコ・マルフォイにベッドを譲ってまで彼を泊めるなんて、僕は何をしているんだろう。そんなことを考えながら、毛布を出してきてソファーに置く。ふと、彼が置いたままにしていたローブが目に入った。 あのトランクには、彼の所有物が全て入っているのだろうか？ 彼は、何でも持っている子供だったのに……。 そんなことを考えてぼんやりと立っていると、扉の開く音がした。顔を上げると、何処か上機嫌な彼が髪を拭きながら歩いてきた。 「そっちのベッド使って」 見れば僕がソファーで眠るつもりな事は判るだろうに、あっさりと頷く。それが彼らしくて、苦笑が零れた。何となく、彼が今も彼らしいことに安堵しながら。 「ちゃんと拭かないと、風邪引くよ？」 言って、彼の持つタオルに手を伸ばす。彼はあっさりとタオルを僕に渡し、大人しくベッドに座った。 細い白金の髪の水分を丁寧に拭き取る。乱暴に扱ったら切れてしまいそうに細い髪は、僕のとは違いとても手触りが良い。僕が髪を拭くのに任せている彼は、静かに目を閉じていた。 「……なんで学生の頃、君が密かにやたらにもててたか判ったよ」 呟きに、目を閉じたまま彼が微かに眉を顰める。 俯いている彼の白い項は、思わず口付けたくなるほどに綺麗だった。整った造作も、色素の薄い人形のような容貌も、澄んだ声も、嫌悪というフィルターを通さないとこんなにも綺麗だったなんて気が付かなかった。 僕の様には彼に嫌悪を向けられていなかった人間なら、誰もが惹かれていても不思議ではない。 「……ポッター？ 酔ったのか？」 惹かれるままに項に口付けると、彼の怪訝そうな声がした。 「うん。……酔った」 本当に、飲み過ぎたのかもしれない。そのまま彼の身体に腕を回し、寄り掛かる。僕の重さを支えきれなかったらしい。ベッドに横たわった彼の胸に顔を埋めた。 「……ポッター」 「うん？」 「どうして、ここに？」 「……賑やかなとこに、行きたかったから」 「……そうか」 「うん」 髪を梳かれて、素直に言葉が零れた。抱き締めた身体から伝わる温もりが心地好い。髪を梳く手は優しくて、僕は目を閉じて彼に擦り寄った。 何故だか、彼なら判ってくれる様な気がした。 賑やかな所に行きたかったんだ。淋しくて。 何も持っていなかった子供は、やはり今も、何も持っていない……。 next |
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掲示板でこっそり連載していたものに、加筆修正して載せています。 どんなものでも問題ないという方、暫くお付き合い頂けると幸いです。 |