日の光を感じて目を開けると、自分のベッドの上だった。どうやら昨日は本格的に飲み過ぎてしまったらしい。自分が服のまま寝ていた事実に気が付いて、身動ぎした拍子に今度は隣に温もりがある事実にも気が付いた。顔を動かしてまず目に入ったのは、綺麗な白金。そこで僕の思考は一旦停止した。
　昨日は、本当に飲み過ぎてしまったらしい。
　ついでに自分の醜態も思い出してしまい、ばつが悪くて堪らない。何て事だと落ち込みたい気分になっていた僕は、そこで漸く異変に気が付いた。
「マルフォイ？」
　起き上がって、隣で眠っている彼を見下ろす。苦しそうに呼吸している彼は、何時もの青白い顔を紅く染めていた。
「大変……」
　もしかして毛布を奪ってしまったのだろうかと思ったがそうでもないらしい。どうやら彼は眠ってしまった僕を隣で寝かせてくれたらしかった。
　彼の額に手を当てると、酷く熱かった。
　慌ててベッドから降り、彼に毛布を掛け直す。取り合えず濡れタオルを額に載せて、僕は急いで医者を呼んだ。
　疲れが溜まっていて、緊張が緩んだので熱が出たのだろうと医者は言った。暫くはゆっくり養生させてあげなさいと言い残して暖炉から消えた医者を見送ると、僕は寝室に戻った。
　幾分呼吸が楽になった様だ。今は、彼は静かに眠っている。時折タオルを替えながら、僕は彼の傍に付いていた。
　不思議なものだと思った。昔はあれほど反目しあっていたというのに、今は、そんな感情は湧かない。今になって考えると、彼も必死だったのかもしれないと思えた。手に入らないものを欲して、ままならない現実に苛立っていたのかもしれない。
　今になって初めて、僕は罪悪感を覚えた。
　学生の頃、僕は彼を容赦なく嫌い、相容れない存在だと決め付けていた。もしかしたら、僕達はとても近い部分を持っていたのかもしれない……。
「……だ……れ？」
　何度目かタオルを替えた時、彼が薄らと目を開けた。熱で潤んだ色の薄い瞳が、僕に向けられる。
「僕だよ。ハリーだ。……大丈夫、もう少し眠って」
　手のひらで両目を覆うと、彼は素直に目を閉じた。
　……もしかしたら、近いものを持っていたから、僕は彼を嫌っていたのかもしれない。
　愚かだと嘲り、必要ない、欲しくはないと考えて、そうして自分を守っていたのだという現実を、直視したくなかったのかも知れない。僕がダーズリー家を見下すことで諦めや失望を押し込めていた様に、きっと彼も、他者を撥ね付け、否定することで自分を守っていた。
　あの頃は、僕はそれを直視する強さなど持ってはいなかった。でも同時に、今のような弱さも持ってはいなかったのかもしれない……。
　彼は何時まで経ってもあのままだと思っていた頃が、懐かしかった。あの頃は、自分ももっと違う未来を描くことが出来ていたような気がする。そう。狭い世界で、描いていたものはもっと違うものだった……。


　結局彼は、三日間寝込んだ。それでも未だ微熱があって、その後も暫くはベッドの住人だった。
「今日は、何日だ？」
　四日目の夜に、目を覚ました彼がぼんやりと訊いてきた。彼に付いている為に仕事を持ち帰っていた僕は、目を通していた書類から目を離さずに日付を答えた。返ってきた沈黙に、僕は彼がまた眠ったのだろうと思った。
　暫くして、ふと、人の気配を感じて僕は顔を上げた。
　するりと肩に腕が伸びてきて、ひょいとばかりに膝の上に座られる。細い腕が、首筋に絡みついた。
「ポッター。僕としないか？」
　硬直している僕に、彼は首を傾げてそう言った。
「……は？」
　まるで散歩にでも行かないか、と言うのと変わらない口調で問われ、僕は咄嗟に間の抜けた声しか出せなかった。
「な、何？」
「金がいるんだ。だから」
　平然と彼が口にした言葉と、その意味するところが直結しない。誘い文句も、彼が口にすると何か別のことのようだ。
　肩に回された腕から、熱が伝わってくる。布越しでも熱いと感じて、僕は焦った。
「判った。お金はあげるから、ベッドに戻って。未だ熱があるのに……」
「憐れみなら要らない。君にとって取引にならないなら……」
「待って！」
　取引が成立しないなら他をあたると言いたげな彼を、僕は咄嗟に、彼の細い腰に腕を回して引き止めていた。抱き寄せた細い身体からも、彼の熱が伝わってくる。
　とくり、と心臓が跳ねた。
　問う様に首が傾げられ、それに合わせて白金の髪がさらりと流れる。熱で潤んだ色の薄い瞳が、真直ぐに僕に向けられていた。
　心臓が激しく鼓動を開始する。僕は一呼吸置き、平静を装って口を開いた。
「……判った。手付けに払うから。……僕は病人とする趣味はない。いい？」
　そう提案すると、膝の上で彼がこくりと頷いた。僕とは対照的に、彼は僕の動揺を気にもしていないらしい。
　庶民の僕にとっては結構な金額を呈示され、僕は内心焦りながら偶々手元にあったそれを彼に渡した。その金額がどのくらいの価値か、彼は判っているのだろうか。こうなってからも、彼は金銭感覚が鈍いらしい。
　金を受け取ると、彼は便箋と封筒を取り出し、何処か嬉しそうに手紙を書き始めた。
「もしかしてヘドウィグもご入用？」
　上着を彼の肩に掛けながら訊ねると、そう言えば、と言った風に彼が頷いた。
　手紙を持たせたヘドウィグを窓から放つ彼はやはり何処か嬉しそうで、僕が促すと、彼は漸く満足したかのようにベッドに戻った。


「保養所探し？　何かあったのかい？」
　後ろから掛けられた声に、僕は驚いて振り返った。突然声を掛けられた事にも驚いたが、僕は寧ろその内容の方に驚いていた。
「保養所？　ここ、保養所なの？」
「うん、確か。なに？　調べてるの？」
　言って、ロンが僕の手にしているメモを覗き込む。
「結構立派なとこらしいよ、ここ。確か、以前はマルフォイ家が多額の寄付をしてて……」
　そこで自然と声が低くなるのは、マルフォイ家への嫌悪の所為というよりは、寧ろ魔法省のやった事をロンも知っているからだろう。
　僅かな沈黙の後、気を取り直す様にロンがメモから僕へと視線を戻した。
「で、そこがどうかしたの？」
「え？　ううん、何でもない」
　首を傾げるロンに、否定の形に首を振って見せる。
　僕はマルフォイが僕の家にいる事を、ロンにも話していなかった。
「……そう言えば、赤ちゃんは元気？」
　怪訝そうな顔をしているロンに、そう話題を振る。予想通り、子供に夢中なロンはあっさりと子供の話に移っていった。


　家に帰ると、マルフォイが寝間着のままで椅子に座っていた。視線を手にした手紙に落とし、微笑を浮かべている。
「ただいま」
　声を掛けると、彼が漸く顔を上げた。
「ああ、お帰り」
「またそんなかっこで起きて……。未だ熱があるじゃないか。ベッドに戻って」
　額に手を当ててみると、未だ少し熱かった。それでなくとも彼は普段から丈夫そうに見えない。大事を取った方がいいだろう。
「もう平気だ。のんびりしすぎた」
「駄目だよ！」
　肩を竦めた彼に、僕は咄嗟にそう叫んでいた。視線の先では、彼が驚いて目を瞬いている。
「……無理すると……ぶり返しちゃうよ？　もう暫く、大人しくしてなよ」
　言って、彼の細い金髪を掻き揚げる。僕の発言をどう取ったのか、彼は大人しくベッドに戻った。
「汗かいた？　着替える？」
「さっき着替えた」
「そう。じゃあ、おやすみ」
　毛布を掛け直してそう言うと、彼は小さく、ああ、と答えて目を閉じた。
　―――治ったら、彼はいってしまう。
　居間に戻り、彼が見ていた手紙の宛名に視線を落とす。流麗な筆跡で綴られた彼宛の手紙の差し出し人は、思った通り、彼の母親だった。


「これは、何だ？」
「仕事」
「仕事？」
「そう。これを採点して、手書きでこのコメントを入れる。で、一枚いくらのバイト」
　僕がテーブルに置いた紙の束を見て、首を傾げた彼にそう説明する。
「で？」
「のんびりしすぎたって言ってたから。これなら家で無理せず出来るでしょ？」
「……もしかして、僕がするのか？」
「そう」
「……ふうん」
　言って、説明に目を通し始める。一週間寝込んで、漸く彼はベッドから出られる様になっていた。もっとも、最後の二日間に起きられなかったのは、微熱がある無理をするなと僕が騒いだ所為もあったのかもしれない。
　起きられるようになっても、彼は出ていくとは言わなかった。何かを待っている風にも見えるのは、律儀に僕の行動を待っているからかもしれない。それを良いことに、僕は手付けだと金を払った事については何も言わなかった。
　……このまま言わないでいれば、彼はここで待ち続けるのかもしれない。
　そんなことを考える自分が、ひどく卑怯者に思えた。
「君向きだと思うけど、どう？」
　説明を読んでいる彼の後ろに立ち、彼の白金の髪に触れる。後ろから抱きすくめても、彼は気に止めた様子もなく何も言わなかった。
「全部書き終わったら……」
「ヘドウィグを貸すよ。この住所に送って……」
　言って、彼の持つ紙の一点を指差す。
　会話の間中、触れてくる僕を気にした様子もないのは、誘って、金を受け取ったからなのだろうか。惹かれるままに、彼の肩口に顔を埋める。伝わる温もりが心地良い。
　そのまま目を閉じていると、ふと、彼が身動ぎした。
「夕食にしようか？」
　僕は顔を上げ、彼が何かを言う前に彼から離れた。


　奇妙な同居生活が続いていた。
　ロンとハーマイオニーには、未だに何も言っていなかった。職場では独り身連中に付き合いが悪くなったと思われている様だったが、どうやら皆、密かに彼女が出来た所為だと思っているらしかった。ロンが散々家庭第一を貫いた経験からか、皆そういった甲斐甲斐しさには理解があるらしい。追求されないのは有り難かった。
　彼は相変わらず、金が入ると殆ど全てを送ってしまっている様だった。たまに、便箋やら封筒やらが切れたと言って買う他は、全て送っているらしい。しっかりと金銭感覚は世間ずれしたままらしく、生活費を入れる、などという事は思いつかないようだ。
　僕の感覚では普段着には向かないと思える彼の服を見て、僕が僕のものを勝手に使って構わないと言ったので、彼はよく僕の服を着ている。ジーンズにシャツという彼らしくない出立ちも見慣れてきた。
　人が知ったら、彼は僕に養われているとでも言うのかも知れない。でも、僕にはそんなことはどうでも良かった。
　明かりの灯った家に、お帰りと迎えられるのならそれで構わない……。
　そんなことを考える僕は、とても愚かなのかもしれない。それが欲しいのなら、ロンの様に家庭を持てば良い。そんなことは判っている。でも、僕は……。

「ワインを貰ったんだ。飲まない？」
「君は弱いくせに飲みたがるな」
「良いじゃない。明日は休みだし」
　グラスを差し出すと、言う割にはあっさりと受け取る。彼の隣に座り、グラスに口を付けた。
　何時も飲みたがるのは僕の方だけど、彼の方がずっと酒に強いので、瓶を空けるのは殆ど彼だ。顔色も変わらないまま杯を重ねる彼の隣で、あっという間に顔が紅潮していく。
「もう酔ったのか？」
「うん。ぐるぐるする」
　小さく笑って、彼に凭れ掛かる。彼が動いた拍子に、彼の膝に頭を乗せた。
「本当に弱いな」
「……君が強いんだよ」
　呆れた様な声がして、彼の手が髪に触れる。僕は目を閉じて、彼が髪を梳いてくれるのを待つ。いつも、いつも……。
　彼は煩わしいことを訊いてこない。でも、きっと彼は、僕が欲しいものを知っている。
　彼も、欲していて足掻いていた子供だったから……。
「……ねえ、お母さんに会いに行かないの？」
「ああ……前に会った時、痩せたと心配されたから。手紙の方が良いかと思って」
「今なら大丈夫じゃない？　僕が三食きっちり作ってるんだから」
　彼は放っておくと食事を抜く。それに気が付いて、僕は昼を作っておくか昼休みに一度家に戻っていた。だから、今の彼は会った時よりも健康そうだ。相変わらず細く、殆ど外出しない所為か肌は透けるように白いけれど、少なくとも痩せ細っているわけではない。
「……そうだな。今度、会って来ようかな」
「僕も一緒に行っても良い？」
「君が？」
「うん。駄目？」
「……別に。好きにすると良い」
「うん。好きにする」
　酔っ払いの戯言だとでも思っているのかも知れない。彼は肩を竦めてそう答えると、またワインを飲み始めた。

「……ター……ポッター」
「……な……に……？」
「寝るならベッドに行け」
　どうやら膝枕のまま眠っていたらしい。彼は何時も、自分が寝る時間になると僕を起こす。
「ん。手、貸して」
　のろのろと起き上がり、返事も待たずに彼の手を握る。彼は呆れた様に、促されるままに寝室まで一緒に来る。それは何時もと同じ行動で、彼は何時も拒絶しない。
「……一緒に寝よ」
「うわっ」
　くすくすと笑いながら抱き寄せて、ベッドに引き入れる。がっちりと抱きつく僕に、彼が諦めた様に嘆息した。
「全く、弱いくせに飲みたがる」
　彼の呆れた声が耳に入る。酔っ払いはこれだから、と言いたげな諦めにも似た声に、笑みが零れた。
　そう。僕は酔っている。
　だから、呆れて、笑って……。そして、許してよ―――。


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