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「……リー。ハリー」 「……な……に？」 「ハリー、いい加減に起きろ！」 耳元で聞こえた声に、僕は一気に覚醒した。勢い良く跳ね起きて、一瞬の後に盛大に眉を顰める。 「……頭が痛い」 「飲み過ぎだ」 冷静な声と共に、コップが差し出される。僕は礼を言って受け取り、その水を一気に飲み干した。 「もう時間無いぞ。……今日は休むか？」 静かな声が頭上から聞こえた。視線を上げると、彼が僕の顔を覗き込んでいた。盛大に眉を顰めているところから察するに、相当酷い顔色をしているのだろう。何処か心配そうな様子が密かに嬉しくて、思わず浮かんだ笑みを誤魔化す様に彼の顔から視線を逸らすと、白い首筋が目に入った。僕は心臓が大きく跳ねるのを感じた。きっちりと着込んでいる彼のシャツの下には、紅い痕がいくつも残っているのかもしれない……。 「いや、大丈夫。行ってくるよ」 昨日の今日で、彼と同じ部屋に平然といられる訳が無い。 痛む頭を抱えたまま、僕は寝ていたソファーから起き上がると、包まっていた毛布をソファーの上に置いた。 「ハリー、大丈夫かい？」 「……ロン、も少し静かに話して」 「十分静かに話してるつもりなんだけど……」 苦笑気味にロンが呟く。僕は痛む頭を抱えて机に突っ伏した。さっき飲んだ薬は、どのくらいで効くんだろう？ 「珍しいね。彼女と飲んだんだろ？ それで君が潰れるなんて……」 「んー。まあね」 曖昧に答えると、ロンが何処か淋しそうな顔をした。噂が立って随分経つのに、何も話してもらえないと気にしているのだろうか。 ロンは僕が彼女と飲んでも酔う事ができない事を知っている筈だから、さっきのは質問だったのかもしれない。 酔っ払ったりしたら、何て口を滑らすか判らないじゃない。 以前にそう漏らした僕に、ロンは肩を竦めて何も言わなかった。以前はロンやハーマイオニーと飲んで、酔ったりする事もあった。段々と、それが出来なくなっていったのは、何時からだったのだろう……。 自分が何を言ってしまうか判らない。聞かれたくない。 「小さい頃からあなたの話を聞いていた」から始まって「優しい人」「自分のことを話さない人」へ。そして、たまにロンやハーマイオニーに紹介する辺りまでいくと、「仲がよくて良いわね」。それから「私ははいって行けそうに無い」「二人の方が大事なんでしょう」。最後には、「あなたの事が判らない」「私の事が本当に好きなの」。 それはお定まりのコースで、僕は最後にはほっとしている。 二人と比べるなんて無意味だと思うし、比べられるものでもない。彼らは僕が初めて得た友人だ。そう考えるのに、そのくせ自分は一番に想って欲しい。想って欲しいのに、言いたい事が言えない。知られるのが、怖い。 そんな感情を持て余して、最後にはほっとしている。 ―――きっと僕は何かが欠落している。結局は、誰とも深く関わる事が出来ない。 「ハリー、昼くらい食べなよ」 午前中は使い物にならなくて、とんだ給料泥棒だなと思っていると、頭上から声がした。買ってきてくれたらしいサンドイッチとコーヒーが目の前に置かれる。食べ物を目にしたら、途端に空腹を思い出した。そういえば、今日は朝から何も口にしていない。 自分は弁当持参なのに、わざわざ買ってきてくれたロンに礼を言おうと顔を上げた瞬間、僕は大事な事に気が付いた。具合の悪さは他所にやって、思わず勢い良く立ち上がる。いきなりの僕の行動に、ロンが驚いて身体を引いた。 「ロン！ 僕ちょっと家に戻る！」 「ハリー？ 昼休みあと二十分くらいしかないよ？」 「うん。でも大事な用が……。これ、ありがとっ」 言い訳をする時間も惜しい。僕は目の前のサンドイッチを掴むと、通勤用の暖炉のある部屋に急いだ。 「ただいま！」 「ハリー？ どうした、早退か？」 いきなり現れた僕を見て、マルフォイが首を傾げた。久し振りに昼に帰った所為か、何処か不思議そうだ。 「ううん。今日昼作っていかなかったから。朝も抜きでしょ？ だから……」 言ってサンドイッチを差し出すと、彼が目を瞬いた。次いで呆れたように口を開く。 「それは君の事だろう？」 「うん……まあ……。でも、どうせ君も食べてないんでしょ？」 そんな事はない、と肩を竦める彼の前には、ティーポットとカップがある。紅茶を入れるのは、彼が唯一自分からする食に関することだ。 そのティーセットは、以前に僕が彼に贈った物だった。それを彼が使ってくれるのが、僕は嬉しかった。その様子を見ていると、欲しいものなどないような彼が、もしかしたら喜んでくれているのかもしれないと思える。 テーブルの上のティーセットを一瞥して彼に視線を戻すと、彼が微かに視線を逸らした。 「……言っとくけど、紅茶とクッキー二枚は朝食にも昼食にもならないからね」 「……茶、飲むか？」 一応自覚はあるらしい。誤魔化す様にそう言った彼が、紅茶を淹れてカップを差し出してくる。再度空腹を思い出し、僕はカップを受け取ってソファーに座った。 「じゃ、半分にしよっか」 笑って言って、彼にサンドイッチを手渡す。彼は薄く笑って、それを受け取った。 相変わらずゆっくりと上品に食べる彼とは対照的に、時計を気にしながらサンドイッチを頬張り、紅茶で流し込む。それから僕は、慌しく暖炉に向かった。 「それじゃ、行って来ます。紅茶、ご馳走様」 振り返って言うと、彼が微笑を浮かべる。僕はつられて笑みを返した。 見送られて家を出る。その事が、嬉しかった。 結局、その夜も彼は昨日の事は口にしなかった。勿論僕も何も言わない。だから、何となくあれはなかった事とする様な、暗黙の了解があった。 僕はその事にほっとしていた。彼に触れたいという衝動さえ押さえていれば、このまま、何も変わらずに過す事が出来るのかもしれない……。 僕は、誰かに自分を理解して欲しいと努力したくない。理解しようと、努力して欲しくない。 ただ、そうありたいと……。意識せずに、そうありたいと望んで欲しい。 いつも、理解したいという努力に、僕が理解できない人間なのだと思い知らされる。自分が欠落している人間なのだと思い知らされる。それを知られたら、離れていくのではないかと、怖くなる。 何も言わずに髪を梳いてくれる優しい手が、泣きたいくらいに嬉しかった。呆れたような物言いと同時に向けられる優しさが、嬉しかった。ただそこに居る存在が、何よりも大切に思えた。 そして、失う事が怖かった。 気が付くと、季節はすっかり冬に移り変わっていた。 今年は、僕はロンからのクリスマスの誘いを断っていた。クリスマスには奮発して料理を作るのも良いかもしれない。彼は何が欲しいという事もないのだろうけど、上等のワインを用意すれば喜んでもらえるかもしれない。今度の休みに買出しに行った時にでも、目星をつけてこようか……？ 「楽しそうだね？」 「まあね。……ロンはクリスマスは実家に？」 どうやら考え事に没頭していたらしい。声を掛けられるまで、ロンが隣に立ったことにも気が付かなかった。 差し出されたコーヒーを受け取り、口を付ける。温かさが有り難い。 彼との生活は既に日常と化していて、時折当たり前の様に彼と過す計画を立てている自分に気がつく。そうすることはとても楽しくて、僕はふと過る不安にはずっと気が付かない振りをしていた。 「うん。孫の顔が見たいって。皆揃うから、賑やかになりそうだよ」 言って、ロンが肩を竦める。ウィーズリー家は大家族だから、騒がしさが目に浮かぶ様だ。以前から賑やかだった集まりは、年々子供が増えてますます賑やかになっている。 「ハリー、本当にこないのかい？ 皆会いたがってるのに……」 「うん、遠慮しとくよ」 「君は家族も同然なんだから、彼女同伴でも大歓迎だよ？」 伺う様にロンが僕の顔を見る。僕がはぐらかすのを追及しないでくれているロンは、たちの悪い女に引っ掛かっているのでは、とか、色々想像を逞しくして心配してくれているらしい。時折こんな風にさり気無さを装って、彼女の事を訊ねてくる。全くさり気無くない辺りがロンらしくて、僕はつい笑ってしまった。 「僕は僕で楽しく過すから、心配しないで」 「そうかい？」 「うん。ありがと」 今日こそは、と思っていたのかもしれない。ロンが何処か諦めた様に小さく溜め息をついた。 ロンの家が嫌いなわけではない。あの家の暖かく賑やかな空間を、僕はとても好ましく思っている。でも僕は、今年は彼と過したいと思っていた。未だ何も話してはいないが、母親のところに行く事も有り得ると、さり気無く尋ねた時の返事は否だったから、彼は家に居るつもりなのだろう。 「そろそろハーマイオニーが痺れを切らしてるよ。顔くらい見せなさいって」 「あー、じゃあ、ハーマイオニーが爆発しない内に、遊びに行くよ」 「そう言って、もう五ヶ月だよ？」 眉を顰めたロンに、そうだっけ、と肩を竦めて見せる。彼と暮らす様になってからは、ロンとハーマイオニーの家を一度も訪ねていなかった。訪ねたくないわけではない。寧ろ、今なら家に帰って淋しくなる事もないのかも知れない。 でも僕は、彼を出来る限り一人にしたくなかった。未だに彼は、僕にとってある日突然居なくなっても不思議ではない存在だった。彼が居たという痕跡すら残さずに、ある日ふと居なくなっているのではないか。そんな不安が何時までも付き纏う。ふとした折に、その不安が頭を過るのだ。 未だにはっきりさせることの出来ない僕の、自業自得だという事は判っている。でも、はっきりとした答えを得てしまう事が怖くて、僕は現状を変えることが出来ないでいた。 「……ハリー」 「ん？ 何？」 ロンの声に、僕は沈み込んでいた思考を振り払った。見上げて促す様に首を傾げると、俯いて考え込む様にしていたロンが視線を僕に戻す。微かに戸惑う風を見せて、それから漸く口を開いた。 「あのさ、フレッドとジョージがさ」 「うん」 「あの二人ってさ、目配せだけで色々するだろ？ 悪戯でも何でも」 「ああ、うん。息ぴったりだもんね」 確かに彼らは言葉も要らないのではと思えるほど、意思の疎通を容易にしている。計画しなくても、その場の目配せで意思が伝わるのにはいつも驚かされる。……最も、迷惑を被ってそれどころではないことも多いけれど。 一体何を言いたいのだろうと首を傾げた僕に、ロンが困った様な笑みを浮かべた。 「でもさ、この間いつも通りそうやってたら二人で思い違いしてて……。なまじ確認なんかしないから、気が付いたのは三日後で……。不精してるからだ、なんて皆に笑われてた」 「へえ。あの二人でもそういう事あるんだ？」 「うん。……だからさ、家族だってやっぱり言わなくちゃ伝わらないことってあると思うんだ」 そこまで言われて、僕は漸くロンが言いたい事の見当が付いた。うん、と小さく呟く僕の前で、居心地が悪そうにロンが咳をする。多分、僕が家族に夢を持ってしまう事を知っていて、どうしても遠慮してしまうのだろう。そんなに完璧なものじゃない、なんて、ずっと持っていた彼が持ったことのない僕には言い辛いのかもしれない。僕だって、夢を見過ぎているという事は判っている。でもきっと、何処までが夢なのかは判っていないのだろう。 「でもさ。家族だから、お互いに理解したいって思う。重荷とかじゃなくて……。努力して、ともちょっと違くて……上手く言えないな……」 「……うん」 家族なら、そうありたいと思えるのだろうか？ 僕が欲しいのはそういった存在で、つまりは家族だという事なのだろうか？ でも、僕は僕が家族を持てるとは思えない……。 見上げた先で、ロンがますます困ったような顔をする。きっと今、僕は情けない顔をしているのだろう。 「だからさ、家族の場合は、何時でも聞く用意があるっていう事で……。根底に当たり前みたいに好意があるから、努力とかじゃなくて……ええと……。つまり、僕がこういう風にいうのは、何時でも話を聞くってこと！」 ぼんやりと見上げている僕に、ロンが困った様に頬を掻く。 「だから……お互いに歩み寄りたいって意思表示は必要だと思うわけ。家族だろうとなんだろうと。言わなきゃ伝わんないことだってあるだろ？ だから、聞く準備があるよって、伝えたいんだ」 上手く言えないな、とロンが呟く。それから困った様に髪を掻き乱した。 「あ、焦らせるつもりはないんだ。無理やり聞きたいとかじゃなくて……」 言って、眉間に皺を寄せる。言葉が上手く見つからないのだろう。小さく唸って考え始めたロンに、自然と笑みが浮かんだ。 最近あまりロンが彼女の話を訊いてこなくなっていたのは、気を使ったからなのだろう。そして、さり気無く態度で示す、では伝わらないと思ったのだろうか。色々と考えた末での行動なのかと思うと、笑みが浮かぶ。変わらないロンの優しさが、嬉しかった。 「……でもさ、言えないんだ」 「焦らせるつもりは……」 「言いたい相手に。訊きたい相手に。……言えないんだ」 絞り出した声は、情けないことに掠れていた。ロンの顔を見ていられずに、視線を机に落とす。 「……彼女に？」 「……好かれているか判らない。……嫌われてはいない……とは思うんだけど」 段々と声が小さくなる。自信など、あるはずがなかった。訪れた沈黙が重かった。ロンは今、どんな表情をしているのだろうか？ 「……えーと……さ。……ほんとに？」 暫くして、戸惑いがちな声が聞こえた。見上げると、相変わらず困惑したような顔があった。頬を掻いて、ロンが苦笑を浮かべる。 「んとさ、こう言うとなんだけど、君って結構思い込み激しいから……。本当に、相手から好意を感じたこと、なかった？」 「相手……から？」 「うん。何でか鈍いって言われまくってる僕が言うのもあれだけど。こう、歩み寄りたいなって感じとか、あるじゃない？ 話をしたいな、とか、一緒にいたいな、とか。言わなくてもさ、何となく伝わるって言うか……相手としては伝えてるつもりというか……」 好意を、と言われて思い出すのは、彼の温もりだった。いつも言葉はなく、ただ、欲しい時にそれは与えられる。 傍らにある、温もり。 彼の示すそれは、好意、だと思っても良いのだろうか……？ 「……それって経験？ ハーマイオニーとの」 ロンの視線を感じて、僕は視線を戻した。僕の軽口に、微かに紅くなっていたロンが、真剣に話してるのにとぼやく。僕が小さく笑うと、ロンがほっとしたように笑みを浮かべた。 身に付いてしまった癖はなかなか消せるものではなくて、どうしても警戒心が働いて、何時も暗い考えを抱いてしまう。そんな僕とは考え方の異なるロンとの会話は、何時も僕に、示唆を与えてくれる。 彼の示すものは、好意だと思っても良いのだろうか……？ 彼が僕の服を着ているのは、楽だから？ それとも、僕がそう望んだから？ 彼が名前を呼ぶ様になったのは、何時からだった？ 彼が紅茶だけは自分で淹れて飲むのはただ好きだから？ それとも、僕が贈ったものだから？ 彼が家から殆ど出ないのは、何時も僕の帰りを迎えてくれるのは、何故？ ……彼が、傍にいてくれるのは……？ 僕が嬉しいと思ったことが。向けられる彼の優しさが。その根底にあるものが、好意なのだとしたら……。 僕達は、近いものを持っている。 もしかしたら、彼も僕と同じように恐れているという事もあるのかもしれない。僕と同じように、答えを得ることを、今のバランスが望まない方向に崩れてしまう事を恐れ、不安に思っているということもあるのかもしれない。 自惚れることは出来ない。自信などない。 でも……。でも、もし彼も不安に思っているとしたら……？ そうだとしたら。そして、彼を安心させることにもなるのだとしたら、僕は、彼に伝えたい。 「……君が友人で良かった。……ありがとう」 するりと零れ出た謝意の言葉に、ロンが目を見開く。それから照れた様子で笑った。 「それならさ、ハーマイオニーの機嫌、何とかしてくれるんだろうね？」 「……善処します」 おどけた様に言って、笑みを返す。頼むよ、とロンが笑った。 照れたように笑うロンは、知らないのだろう。自分が、何時も僕の背中を押してくれている事を。 自信などなくて、僕はとても臆病で。けれども……。 クリスマスは、良い機会なのかもしれない。 カレンダーに目を向けると、クリスマスまではあと一週間あった。 上等なワインかシャンパンを用意して、料理を作って、そして……。 窓の外に目を向けると、空は何時雪が降りだしてももおかしくない鈍色をしていた。すっかり寒くなった。僕は寒さにも暑さにも強いので寒くなったとしか思わないが、どうやら冬は彼にとっては苦手な季節らしい。指が冷えて字が書けないと眉根を寄せていたのを思いだし、思わず笑みが零れた。 どれと手を取ると細く白い指先は本当に冷たくて、僕の手の熱が伝わると、彼はほっとした様に微笑を浮かべていた。 ……彼は、笑うだろうか？ 何かがないと立っている事の出来ない彼を、守りたいのだと。 そんな事を望んでいるのだと伝えたら、彼は笑うだろうか？ 彼という存在が僕には必要で。だから、昔の様に自尊心に縋らなくとも、今の様に母親の為という目的に縋らなくとも、大丈夫なのだと。そのままの彼が、僕には価値があって、必要なのだと。 そんな事を伝えたら、彼は笑うだろうか……？ 「ただいま」 クリスマスの予定を頭の中で練りながら何処か昂揚した気分で帰宅した僕は、足を踏み入れた瞬間、室内の様子に眉根を寄せた。最近では常に暖かく保たれていた筈の部屋の空気が、ひんやりと冷たい。 「マルフォイ？」 呼んでも、返事がない。静かな部屋に、自分の声だけが響いた。 その事実に、一気に部屋の温度が下がったような気がした。 心臓が激しく鼓動を開始する。頭の中は真っ白だった。 「マルフォイ？ 何処！？」 名を呼びながら、狭い部屋を調べる。ものの五分と掛からずに、誰もいないことが判ってしまった。物音一つしない室内で、自分の呼吸の音が奇妙に耳に付いた。静けさに、叫び出してしまいそうだ。 「マルフォイ！！」 悲鳴の様に一度名を呼んで、僕は鍵も掛けずに部屋を飛び出した。 next |