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翌朝目を覚ますと、彼はまだ眠っていた。毎朝、僕が十分も掛けずに慌てて顔を洗い着替えて一階に下りると、彼はもう一時間も前から起きていたかのように身支度を整えて本を読んでいる。その彼が、今日は僕が起きてもまだ熟睡している様だ。子供らしい寝顔は、可愛らしかった。 なんとなく動いてはいけない様な気がして、僕は擦り寄るようにして眠っている彼を起こさないように頭だけを動かして時計を見た。その途端、僕は凍りついた。 「……うっそ、まじ？」 時計の針は、僕がいつも起きる時間より三十分も後を示している。今日は日曜だっただろうかと、一瞬多分に希望を含んだ考えを抱いたが、どう考えても今日は月曜日だ。 「マルフォイ！ マル……ドラコ、起きて！」 僕の声に、腕の中の彼が身動ぎした。身体を起こし、ぼんやりと僕を見上げて首を傾げる。寝惚けた様が、どこか可愛い。 「もう起きないと。仕事に遅れるっ」 慌ててベッドから出る。そんな僕を眺めて、やはり彼はぼんやりと目を瞬いた。 僕と違って、家に居る彼はいつまで寝ていても問題はない。 そこで漸く、僕はその事実に気が付いた。そもそも、呑気に起こしている時間もない。 「じゃ、僕行くから。ちゃんと朝食は食べるんだよっ」 そういい残して自室に戻ろうと扉を開けた瞬間、後ろから声が聞こえた。 「……いってらっしゃい」 驚きに振り向いた視界に、はにかむ様に笑った彼がいた。……彼はまだ、寝惚けているのだろうか？ 「……行って来ます」 それでも、何故か嬉しいような、なんともいえない感じがして、僕は遅刻寸前な事も忘れて静かに扉を閉じた。 その日は一日、奇妙な戸惑いがいつまでも頭から離れなかった。終業時間が来なければいいとまで思ったくらいだ。 いよいよ帰らなければならなくなると、そのころにはもうどうにもでもなれという感情が僕を支配していた。考えたところで、どうにかなるわけでもない。 扉の前で一呼吸置いて、僕はウィーズリー家の扉をノックした。 「ただいま帰りました」 言って家に入ると、台所からウィーズリー夫人の、お帰りなさい、という声がした。顔を見せない夫人は夕食の仕度で手が離せないのだろう。室内には食欲をそそる匂いが漂っている。 「……おかえりなさい」 小さなその声に、僕は内心びくりとしていた。彼がそう言うのはいつもと変わらない。挨拶をきちんと、というのはウィーズリー夫人がよく言っていて、彼はそれに従って最低限の挨拶はする。視線をソファーに向けると、本を手に彼が僕を見上げていた。僕は視線を落とし、小さく喉を鳴らした。 「……ただいま」 呟く様にそう答えて、口を閉じる。真っ直ぐに向けられている色の薄い目が、僕を映していた。いつもなら彼は僕と目を合わそうとはしない。しかし今日は、真っ直ぐに僕を見ている。その表情からは何も読み取れなかった。ぼんやりと、と言ってもいいくらいに、感情がない。 先に目を逸らしたのは、僕だった。 一瞬の後、もう一度視線を彼に向けた時には、彼はもう僕を見てはいなかった。相変わらず表情もなく、膝の上の本に視線を落としている。 罪悪感と後悔が、僕を襲った。 例えば彼が寂しそうな表情を浮かべていたのなら、僕は慌てて何かを出来ただろう。例えば彼が、今更手のひらを返すのかという様に怒りの表情を浮かべていたのなら、僕はその様子を可愛いと笑うことが出来ただろう。しかし、彼はどちらもしなかった。 その様子には、覚えがあった。 与えられた優しさは気まぐれなものに過ぎなかったのだと気が付いて、それなら初めから向けられないほうが増しだと心の中で罵倒しながら、与えられた優しさに嬉しさを覚えて。そして、気まぐれでも良いから欲しいのだと思っていた昔の自分は、あんな表情をしていたのかも知れない。 何事もなかったかの様に伏せられた彼の瞳からは、微かに諦めだけを読み取ることが出来た。 小さい頃の僕は、期待を押し込め、失望の痛みを和らげていた。いつも、失望することの方が多いことを知っていたからだ。得ることのない子供は、そうして自分を守るのだろう。 僕は彼に近寄ろうかと一瞬考えて、結局それをしなかった。 戸惑いと困惑とが、僕にそれを踏み止まらせた。僕は、自分がどうしたいのかが判らなかったのだ。彼に対する嫌悪を忘れたわけではない。ドラコ・マルフォイをどう思っているかと訊かれたら、今でも僕は嫌いだと即答するだろう。しかし、今彼をどう思っているかと訊かれたら、僕は答えられない様な気がする。 今更違う感情を認めることは、僕には難しかった。そのことに戸惑いを覚えずにはいられない。彼に嫌悪以外の感情を抱くことは、昔の自分を否定するようで、また、一緒になって彼を貶めていた友人を裏切るようで。 ―――嫌悪の情だけを抱いていられたなら、楽だっただろうに。 罪悪感に襲われながら、僕は逃げる様に自室に向かった。 変わらない優しさが欲しかった。それを疑うことも、不安に思うことも必要ない、変わらない想いがずっと欲しかった。だから僕は、気まぐれの優しさを向けることに、戸惑いを覚えずにはいられない。僕は彼を嫌いだったのだから、その優しさは気まぐれにしか成り得ない。 彼を、ただ嫌っていられれば楽だったのに。 ほんの少しの良心に彼は最低な奴なのだと言い訳を与えて、ひたすらに嫌っていられたなら、きっととても、楽だった。 next |