風呂から出ると、僕は急いで彼の部屋に向かった。濡れたままの髪をタオルで乱雑に拭きながら、ノックをして扉を開ける。暖炉には火が入っていて、部屋は暖かかった。
　部屋の中にはハーマイオニーだけが居て、僕が入っていくと彼女が視線を上げた。
「どう？」
「熱が高いわ。でも、さっき薬を飲ませたから、少し落ち着いたみたい」
「そう」
　ベッドを覗き込むと、白い肌を紅く染めた彼が眠っていた。苦しそうに息をしている。僕は白い額に掛かった金髪をそっと掻き揚げた。
「おばさん達は？」
「こんな時間だから、先に休んでもらったわ。朝になったら交代してもらおうと思って。おば様は自分が付いているって言っていたのだけどね」
「ハーマイオニーも休んで。僕が付いているから。何かあったら呼ぶよ」
「そう？」
　言って、ハーマイオニーが首を傾げる。ベッド脇の椅子に腰を下ろし、僕を見上げていた彼女が、ふと笑みを浮かべた。
「何？」
「ん。可愛がってるなって思って」
「そう？」
　肩を竦めて見せると、ハーマイオニーが小さく笑った。
　彼の額にあるタオルを整えていた僕の手は、今は彼の白く小さな手に握られている。いつも冷たい手が、今は熱い。僕は彼の上掛けをもう一方の手で整えた。
「可愛いんでしょ？」
「うん。可愛い」
　素直に認めると、ハーマイオニーが満足そうに頷いた。
「なんだか……幸せそうね？」
「……そうかな。……うん。そうかも」
「それは良かったわ」
　言って笑ったハーマイオニーに、笑ってみせる。そこで僕は、抱いていた疑問を思い出した。
「あのさ、ハーマイオニーは彼の事、どう思ってるの？　ロンみたいにどうしても嫌ってしまったって仕様がないかなと思うんだけど……」
「あら。あなたが自分で言ってたじゃない。自分達が思っていたほど、彼の事を知らなかったって」
「……さすがだね」
　やはり彼女は、僕たちよりも大人だ。感嘆を込めた僕の言葉に、しかし彼女は視線を落とした。
「……私だって、彼を嫌ってなかったわけじゃないわ。でも、彼がなんだか……気の毒で」
「え？」
　どういう意味かと説明を促せば、彼女が考えるように拳を唇に当てた。
　気の毒、というのならそうかもしれない。親に従ったことで罪人の烙印を押された。彼の行く末は平坦なものではないだろう。でも、ハーマイオニーが言った意味は、そういう意味なんだろうか？
「気の毒だなんて、彼は嫌がるかも知れないけど。……魔法省は、犯罪を犯したとされる未成年の魔法使いは、記憶を奪って放免にするわ。いかにもそれが、温情厚い行為だと嘯いて」
　その言葉に否定的な響きを感じ、僕は眉を寄せた。確かに、記憶を奪うというのは、酷い行為だと思う。彼は、両親の事もはっきりとは覚えていないだろうし、また、自分が何故罪人として認識されるのかも判らないだろう。でも、正直に言って僕は魔法省のその制度について深く考えたことはなかった。以前にそれについて聞いた時には、深く考えもせずに甘過ぎる処置だと思ったくらいだ。
「でもそれは、彼という人間をある意味消すことだと思うの。経験や記憶が、彼という人物を形作っているわけでしょう？　選んだ道やしてしまった行為を自覚させ、それに対する考えを改めさせる。そんな手間隙を掛けたくないから、楽な方法を選んでるのじゃないかしら」
　言われて、僕は思わず彼を見下ろした。考えを改めさせる。果たしてそれが、彼に必要だったのだろうか？　記憶の削除が、本当に彼に必要だったのだろうか？
「私ずっと思っていたの。彼は特に確固たる自分の考えで行動なんてしてないんじゃないかって。つまり、ヴォルデモートに従う理由がないってこと。妄信してたわけでも、心酔してたわけでもないんじゃないかって。彼は、本当はヴォルデモートのことなんてどうでもいいんじゃないかって」
　一息に言って、ハーマイオニーが息を吐く。それから落ち着いた声音で、彼女は言葉を続けた。
「彼は、お父様に従うことを選んだだけだったんじゃないかしら。愛情や関心が欲しかっただけじゃないのかしら」
「……僕も、そう思うよ。今は」
　微かに驚いた様に僕を見て、それからハーマイオニーはゆっくりと頷いた。
「……ほんの少し違っていたら、私達はもっと違う風にもなれたのかも知れない。彼は、誰かを大切に思うことが出来る。もしかしたら、違う道もあったのかもしれない。記憶を、過去を消すということは、その可能性をも奪うということだわ。……そして、そういったこと全てを含めて、彼を否定することだと思うの」
　ハーマイオニーが、何処か悔しそうに唇を噛んだ。
　自分の手を掴む小さな手を、僕は握り締めた。こんな風に彼が僕の意識に入ってくるまで、僕はそんなことなど考えたことがなかった。彼が何を考え、どうしてその行動に至ったのか。本当に彼は、嫌うことしか出来ない相手だったのか……。
　僕たちは、傷付け合うばかりだった。違う道など考えたこともなかった。僕はただ、苛立ちや怒りを、彼にぶつけることで発散していただけなのかもしれない。
　もしかしたら、僕と彼はもっと違う風になれていたのかも知れない。
　今、僕は目の前に居る彼を、大切に思っている。愛しいと、思っている。
「それは寛大な処置ではなく、刑だわ。……だから私、彼がウィーズリー家に引き取られると聞いてよかったと思っていたの。あなたとロンは嫌そうだったけどね」
「うん。まあ。でも、今では良かったと思ってる」
「おば様は愛情深い人だから、良いと思ったの。せめてこれからの日々が幸せなものならって……。でも、正直あなたが一緒なのはどうかしらと思ってた」
「……そんなに苛める様に見える？」
「違ったの？」
　直ぐにそう切り返し、悪戯っぽく笑ったハーマイオニーに、僕は笑うしかなかった。胸を張って、違った、とは言えない。
「まあ……最初の頃はね。でも、今は違う」
「それは見てれば判るわよ」
　僕の手を見て、ハーマイオニーが微笑む。彼の手は、僕の手を掴んだままだ。
「さてと。私も休ませてもらうわ。何かあったら起こして」
「ん。お休み」
「おやすみなさい」
　ハーマイオニーは扉の前まで行くと、ふと足を止め、頭だけ振り返った。
「私も、今は良かったと思ってる。私も、嬉しいわ」
　そう言って笑みを浮かべると、ハーマイオニーは部屋を出て行った。
　ハーマイオニーが居なくなると、部屋は途端に静けさに包まれた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。僕はハーマイオニーが出て行った扉から彼へと視線を移した。いつもは青白い彼の肌は熱で紅く色付いていて、頬に触れると熱が伝わってきた。頬よりも冷たい僕の手が気持ちよかったのだろうか。彼が微かに僕の手に擦り寄ってくる。
　その仕草に、僕は笑みを浮かべた。
　彼はウィーズリー夫人をとても慕っている。そして、以前の彼は両親をとても尊敬していた。そんな風に、彼は誰かを大切に思える。ハーマイオニーの言った通り、もしかしたら僕たちは、ホグワーツに居た頃にもっと違う風になれていたのかも知れない。今、僕は彼をとても大切に思っていて、彼は縋る様に僕に抱きついてきてくれる。僕たちは、嫌い合う以外の関係も築けたのかもしれない。
　―――でも、もう彼は居ない。
　彼が何を考え、何を望んでいたのか。それを知る術はもはやない。強い意志を込めてハリー・ポッターを見ていた彼はもう居ない。
　彼が死喰い人として何かをしたという記憶はない。彼はただ、あちらに居た。本当に僕は、彼の何を嫌っていたのだろうか？
　冷静になって思い出すと、僕はただ、彼の第一印象が気に入らなかったのだ。彼の生まれ特有の話し方が気に入らなかった。よく知らない相手とは一定の距離を取る彼の方法が、僕には判らなかったのだ。彼が僕に手を差し出したとき、僕は既に友達になれそうなロンと知り合っていて、わざわざ彼の手を取る必要はなかった。最初の理由は、それだけだったのかも知れない。
　僕はそれだけのきっかけで彼を嫌い続け、互いに歩み寄ることをせず、互いに嫌悪だけを増していった。そして彼が罪を問われた時、僕は、ざまをみろ、と思った。それは当然の報いだと。
　彼に対する僕の態度は、僕が嫌っていた叔母の一家と何処か違っていたのだろうか？

「は……りぃ……？」
　小さな声が聞こえて、僕は慌てて彼の声を聞こうと身を屈めた。
「どうしたの？　なにか欲しい？」
「さむ……い」
　言って、彼が僕の手に擦り寄る。僕は眼鏡をサイドテーブルに置き、彼の隣に入り込むと、彼の小さな身体を抱き寄せた。ぬくもりを求める様に、彼が僕にしがみついてくる。彼の身体に腕を回し、彼の背をあやすように撫ぜると、彼は安堵した様に眠りに落ちていった。
　彼が眠ったのを確認して、僕は安堵の息を吐いた。目の前の淡い金髪に唇を寄せ、腕の中の華奢な身体を護る様にやんわりと抱きしめる。
　腕の中のぬくもりが、愛しかった。愛しいと思えることが、嬉しかった。
　僕は、こんな風に彼と過ごすことが出来たことを、心から良かったと思った。あたたかな感情を知った事を。そして、自分のしてきたことに気が付くことが出来たことを。僕は酷いことをし、考え、それを酷いことだと自覚しないでいた。いや、酷いということを自覚していて、それをなんとも思っていなかった。
　誰かの幸せを心から望めることは、幸せなことだ。誰かの不幸を望み、貶めるよりも、ずっと、ずっと、心地好い。暗い感情を発散させるよりも、こうしてあたたかな感情を持てる何かがある方が、ずっと。
　腕の中のぬくもりに、僕は満たされるような心地がした。


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