ゆっくりと眼を閉じて、君は感覚を摩り替える。 　今、君の目の前にいるのは、誰なのだろう。 　薄らと微笑を浮かべて君は、今、誰の腕の中にいるのだろう……。 - 暗い海の底に眠る　第一章 - 　透明マントを持っているハリーにとって、深夜の徘徊はちょっとした散歩だ。灯りの落ちたホグワーツは、昼間とは異なった顔を見せる。石造りの建物は重々しく、ひんやりとした廊下は昼間の喧騒が嘘の様だ。その昼間とは違う空気が、ハリーは好きだった。 　その日、普段は使われない塔の一角に行ってみようと思ったのは、多少の好奇心からだった。 　城の北側にあるその塔の一角は、金曜の夜はフィルチの巡回から外れるのだと、双子が何気なく漏らした情報がハリーの興味を少しだけ引いた。健全な青少年が金曜の夜に少しだけ羽目を外すのを、融通が利き過ぎる嫌いのある校長が黙認しているのかもしれないと、ハリーはその話を聞いた時、つい笑みを零してしまった。 　学年が上がると、その話を耳にする生徒がいる。それは秘密を守れる人間で、そこで見たことは見なかったことにする、という暗黙の了解を理解できる人間で、人間羽目を外すことも必要だと思える人間だ。 　深夜の徘徊で逢引の最中の知り合いにばったり何てこともある、と悪戯っぽく笑った双子は何度かそういうことがあったのだろう。勿論、それは普段のからかいの種にはならない。それは、見なかったことなのだ。所謂夜遊びはお互い様。自分が黙認して欲しければ他人の所業も黙認すべし、といったところなのだろう。 　残念ながら、その日は小半時間歩いても廊下で誰かに会うことはなかった。透明マントを被っているハリーは、人に見られることなく誰が羽目を外しているかを知ることが出来る。些か卑怯な気もしたが、便利な道具を使わない手はないだろう。ハリーは音にだけ気を付けて更に廊下を進んだ。 　誰に会うこともないままに奥へ奥へと進んでいたハリーは、漸く報われた様だと目を細めた。奥の一室から微かに明かりが漏れ、人の声がする。ただの散歩で終わりそうだと思い始めていたハリーは、上機嫌でその部屋に向かった。 　暗黙の了解というのは、こういった場合に特に効果が期待されるのだろうか。 　その部屋の手前まで来てハリーは、しまった、と思った。 　部屋から漏れる声は明らかにそういった類のもので、聞いてしまった方が決まりが悪い。寮生活の間に色々と知識を吹き込まれてはいても、実際にこういった場に居合せてしまうとただ焦ってしまうばかりだ。 　心臓が、跳ねる。体温が嫌が応にも上がってきて、きっと自分は今赤面しているのだろうとハリーは思った。 　ハリーはそろりと踵を返した。この場に長居して出てきた人物と鉢合わせになるのは御免だし、声の主が誰かを知ってしまったら、見なかったことに出来るかどうか自信がない。 　音を立てない様にと歩き出したハリーは、耳に入った声に思わず足を止めた。 「君は何時も、何を見ているんだい？」 「……詮索は、約束違反だ」 　始めに聞こえてきた、低く落ちついた声音に聞き覚えはなかった。気遣うような声は優しげで、それでいて何処か寂しそうだ。 　そして、それに答えた声。それがハリーの足を止めさせた。 　まさか、と思った。 「詮索だなんて……。僕はただ……君が、心配なんだ……」 「心配？　必要ない。これは、取引だ。それ以上の感情は必要ない」 「君は……」 「条件を守れないのなら、取引は終わりだ」 　気だるげな、何処か突き放すような冷たい声。それでいてその声質は綺麗に澄んでいて、自分に向けられる時はただ苛立つだけの筈のそれには、何故か奇妙に惹き付けられるものがあった。ホグワーツに入学してからずっと、こちらにお構いなしに聞かされ続けたこの声に、聞き覚えは嫌と言う程ある。その声の持ち主が誰かなど、ハリーには確かめる必要もない。 　そう。声だけならば。声は確かに彼のものだ。しかし、その内容が彼と結びつかない。ハリーは困惑気味に眉根を寄せた。 「……判った。もう訊かない」 　諦めた様な声はやはり寂しげで、聞き覚えのない声の持ち主が何故か気になった。 　会話が途切れた後も、ハリーは暫くその場で息を殺していた。混乱に、思考が働かない。やがて我に返ると、ハリーは靴音が響くのも気にせずに走り出した。 　漏らされた吐息が、押さえきれずに零れた高い声が、耳の奥にこびり付く様に残っていた。 next

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