書斎の扉をノックすると、父の低い声が聞こえた。深呼吸し、扉を開ける。今も、この部屋に入るのが僕は苦手だった。扉を開けるだけで、どうしようもなく緊張を覚えてしまう。
「失礼します」
「……どうした？」
「母が……。母が、中庭の花を一緒に見ないかと……」
「……そうか」
　そう言った父が一瞬落胆した様に見えたのは、気のせいだろうか。いや。気のせいだろう。そうに決まっている。どこか淋しそうに、だなんてあるわけがない。
「綺麗な花が咲いていたので。父上にも是非と……」
「判った」
　そう答えた父は動かない。僕は困惑してしまった。父が歩き出したら、僕はその後を付いていけばいい。けれども、父は動かない。先に行っていろという意味なのだろうか？
「あの、では中庭で……」
「ドラコ」
「はい」
　名前を呼ばれて、僕は姿勢を正した。反射的に、不安が身体中を駆け巡る。叱咤か、失望か。僕は父の目を見られなかった。
「あー。その、なんだ。……まだ、具合が良くないのか？」
「……え？　あ、あの。……い、いいえ」
「食欲が無いようだが？」
「はい。あの……すみません」
　僕はどう答えれば良いのか判らなかった。どうにもはっきりとしない物言いの父に驚いたというのもある。そして、父の意図が判らない。俯いている僕の耳に、父の溜息が聞こえた。
「……すみません」
　居た堪れなくなって、僕は再度謝罪を口にした。恐らく、僕はまた父を失望させてしまったのだろう。沈黙が痛かった。
「ドラコ……」
「はい」
　暫くして、溜息交じりの声が聞こえた。叱咤を覚悟して返事をすると、父がまた溜息を吐くのが判った。
「……私は、そんなに頼りないか？」
「……は？」
　耳に入った声に、僕は思わず間抜けな声を上げた。
「……あ、あの。……父上？」
　脳内を、「そんなに僕は頼りない？」と拗ねるハリーの声が木霊する。それは僕が抱え込んでしまう性質の為によくハリーが口にする言葉で。もっともその性質はハリーの指摘で自覚したのだけれども、相談してくれないのが淋しいと言ってハリーが拗ねたのがきっかけで……。予想外の事態に、僕はうっかり逃避的に懐古に走ってしまった。……今のは幻聴だったのだろうか。
　混乱しながら思わず顔を上げた僕の目に入ったのは何処か淋しそうな父の姿で、その姿に哀愁を覚えてしまい、僕は思わず自分の目を疑った。
「……やはり、そうなのか？」
「ええと……」
「確かに、私の判断が間違っていたのは今となっては否定しない。そんな父では相談できないと言われては仕方がない。だが、ポッターの小僧とてさして違うまい？　あの情けない小僧は、お前を迎えに行った私に一言も言えなかったぞ？」
「ち、父上？」
「息子さんをくださいの一言もなしに駆け落ちして、挙句にあれはなんだ？　頼りないにも程がある」
　鼻息荒く怒気を露わにする父に、僕はどう反応してよいのか判らなかった。そもそもが、息子さんをくださいなどという言葉を父の口から聞くことになるなんて……。
　そこまで考えて、僕はふと思った。
　僕たちは、色々なことを見ないでいたのかもしれない。
　僕たちは、いつも逃げていた。逃げることばかりを考えていた。息子さんをくださいどころか、僕もハリーも父や母に何も話さなかったし、始めから無理だと諦めていた。ハリーも、恐らく友人に理解を求めたことは無かっただろう。否定されるのが、嫌だったから。ハリーは敵対するものを退ける強さを持っているけれど、幸せに対しては酷く臆病だ。そして僕はいつも、諦めることを考える。
　一体、僕はいつ幸せになる努力をしただろう？
　僕は恥ずかしさで頬が熱を持つのを感じた。僕たちは狭い視野しか持たないで、まるで悲劇に酔う様に二人で居た。静かに終わりを待つ様に、足掻きもしないで。
「そこそこ見所があるかもしれんと思っていたが、あれはいかん。あれは頼りなさ過ぎる」
　まるで自分の言葉の正しさを確認するように父が頷く。僕は自然と笑みが浮かぶのを感じた。
「……あの、父上」
「ん？」
「もしかして……心配してくださっていたのでしょうか？」
　思い切って父の目を真っ直ぐに見ると、父が微かに照れた様に咳をした。
「……息子の幸せを願うのは当然だろう」
　少し早口に、低い声で言葉が紡がれる。いつもと変わらない声が、何処か暖かく耳に響いた。
「……有難うございます」
　自然と浮かんだ笑みを向ける。父が微かに、目を細めた。
　そのいつもと変わらない仕草に、僕は、いつもとは違うものが見えた様な気がした。


　中庭に行くと、母がお茶の用意をさせていた。現れた父に椅子を勧める。三人でテーブルを囲んでいると、温かな風が頬を撫ぜた。いつものように、会話はあまりない。それでも、僕はこの空間を心地好く感じていた。ふと視線を向けると、母がにこやかに笑みを浮かべていた。まるで、知っているわ、とでも言っているかの様だ。……多分、母は知っているのだろう。
　目の前にある道が行き止まりに見えても、ふと見渡せば、何かが見つかるのかもしれない。
　譲歩を示した父を、僕は説得できるかもしれない。味方は居ないと思っていた魔法界だけれども、それだってどうにかできるのかもしれない。ハリーには、僕よりもずっと悪賢い友人が居る。彼女を味方につけられないとは決まっていない。だって僕らは、まだ何も始めていない。
　花の甘い香りが風に運ばれてくる。僕は手にしていたカップを受け皿の上に戻すと、顔を上げた。いつも覚えていた緊張はなく、どこか落ち着いた気分だ。視線に気が付いたのだろう。父が問う様に微かに目を細める。緊張せずに父と話が出来たのは、随分と久しぶりだ。僕は自然と笑顔を向けることが出来た。
　それでも駄目だったなら……。そうしたら、世界の果てまで二人で逃げてみようか？
「……父上。お願いがあります」
「うむ」
「確かに父上の仰る通り、ハリーは少し頼りないところもあるのです」
　僕の言葉に父が大きく頷く。ああ、そうだ。ハリーは今頃、泣いているかもしれない。
「だから、僕が迎えにに行っても良いですか？」
　僕の言葉に、父が苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる。鈴を転がした様な母の笑い声が、暖かな中庭に響いた。


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