フラットに着くと、僕は音を立てない様に静かに扉を開けた。暖かくしておいた室内に入る。一気に曇ってしまった眼鏡を拭いていると、寝室から咳き込む声が聞こえた。僕は慌てて荷物を置くと、寝室の扉を開けた。彼に駆け寄り、薄い背を擦る。そうしているうちに段々と息が整い、彼が大きく息を吸い込んだ。 「……お帰り」 「……うん」 　彼はただそれだけを言い、僕もそれだけを応える。 　大丈夫かと質問することに、どれ程の意味があるだろう？　彼の体調が悪いことは判りきったことで、それでも彼が平気だと答える事が辛い。彼が段々と静かに、穏やかになっていくことが、僕は怖い。それでも時折紡がれる皮肉には以前ほどの鋭さはなく、何処となく僕を気遣っている風で……。 「どうした？」 　僕を見上げている彼は小さく笑みを浮かべていた。促す様に小さく首を傾げる。 「うん……」 　言って、彼の頬に触れる。寝台に腰を下ろし彼の肩に顔を埋めると、細い指が硬い髪を梳き始めた。抱き締めた身体は細く頼りない。その儚さに、僕は彼を抱く腕に力を込めた。 　鼓動が伝わる。規則正しいそれが、彼が生きていることを伝えてくる。僕は安堵を覚えた。そして、それと共に言い様のない恐怖を覚えた。 「食事作るから、もう少し休んでて」 　彼の肩から顔を上げ、笑ってみせる。彼が応える様に笑みを浮かべた。 「ああ」 「寒くない？」 「ああ」 「暖かくしててね」 「大丈夫だ」 　安心しろと言う様に彼が笑みを浮かべる。きっと以前の彼なら、しつこいと呆れただろうに。 「……直ぐに出来るから」 　言って、彼の頬に触れる。軽く口付けを交わすと、僕は寝室を後にした。 　なんでもないことの様に寝室の扉を閉じ、台所に向かう。材料を並べながら窓の外を見ると、静かに降り続ける雨が目に入った。 　材料を持つ手が小さく震える。這い上がってくる様な恐怖に、僕は小さく喉を鳴らした。 　―――まるで、砂時計の砂が流れ落ちる音が聞こえる様だ。 　少しずつ、少しずつ、時間という名の砂が減っていく。砂の流れる音は、手遅れになるよ、と警告しているかの様だ。 　野菜を洗う手を止めると、辺りは雨音しかしなくなった。息を殺して耳を澄ます。まるで世界に自分ひとりしか居ないかの様に、雨音だけが耳に入る。 　―――彼が、居るのに。彼はここに、居るのに。 　手にしていた野菜を放る様に置くと、僕は濡れた手も気にせずに走り出した。狭い居間を数歩で抜け、勢いよく寝室の扉を開ける。暗い寝室で、彼が驚いた顔で上体を起こした。 「……どうした？」 「……なんでもない」 　どう言って誤魔化そうか。そう考えた僕の口から出たのはそれだけだった。首を傾げる彼に曖昧に笑ってみせる。 　サラダは食べられそう？　そうそう、美味しそうな林檎があったから買ってきたんだ。 　誤魔化しの言葉が頭に浮かんだが、僕の喉が上手くそれを紡げない。開こうとした唇が、小さく戦慄く。不思議そうにしている彼に、早く何か言わないと……。 「ハリー」 　焦る僕に、穏やかな彼の声が聞こえた。微笑を浮かべ、手を差し伸べてくる。促されるままに僕は彼の傍らに立った。薄い肩に顔を埋め、細い身体を抱き締める。彼の手が、あやす様に僕の背を撫ぜた。 　毎朝、僕は起きて直ぐに彼が呼吸をしていることを確かめる。彼の温もりを求めるように抱き締めて、心臓の鼓動に耳を澄ます。そこで漸く、僕は安堵の息を吐く。今日は大丈夫。だから明日もきっと、大丈夫。そう自分に言い聞かせて、彼の髪に顔を埋める。 　そんな日々が、いつまで続くのだろう？　いつまで続いてくれるのだろう？ 「ごめん。スープまだ出来てないんだ。もう少し待ってて」 　言って顔を上げると、彼が笑みを浮かべた。 「ああ」 　短く言って、彼が目を細める。僕は笑みを返した。 　―――僕は、恐ろしい。僕は、残されることが、恐ろしい。失うことが、恐ろしい。 「直ぐに、出来るから」 「ああ」 　笑みを浮かべる彼の頬に手を添えて、ゆっくりと口付けを落とす。彼の様子を気遣いながら、僕はそのまま深く口付けた。 　―――砂時計の、音が聞こえる。 　―――手遅れになると。 next

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