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苛立っていると、碌な事はない。もやもやとした感情を抱えたまま果物ナイフを手にしていたハリーは、小さく舌打ちした。勢い余って、自分の手まで切ってしまったのだ。最近ではそういった失敗が多かったが、今回は派手にやってしまったらしい。血が流れ出る傷口を慌てて手近にあった布で押さえ、ハリーは再度舌打ちした。どうやら思った以上に深く切ってしまったらしい。布が瞬く間に赤く染まっていく。傷口を布できつく押さえ、ハリーは談話室を後にした。 「失礼します」 ノックの後、声を掛けて医務室に入ったが、返事はなかった。どうやらマダム・ポンフリーは席を外しているらしい。身体が弱いわけでもないのに医務室の常連になってしまっているハリーは、肩を竦めると薬品の棚に向かった。薬の見当はつくし、もし間違ったとしても鍵も掛かっていない棚にある薬だ。大した害はないだろう。一瞥して止血の薬を見つけると、ハリーは戸惑うこともなく傷口にそれを振り掛けた。 暫く待ってから血の止まった傷口を布で拭うと、塞がり掛けた傷口からじんわりと血が滲み出てきた。やはり、鍵の掛かっていない棚に強い薬は置いていないらしい。 マダム・ポンフリーを待って、きっちりと直してもらった方が良いだろうか？ そう考えて椅子に向かおうとしたハリーは、医務室のベッドのカーテンが一組引かれているのに気が付いた。物音もしないので気が付かなかったが、どうやら生徒が一人居たらしい。 もし起きていたら、マダム・ポンフリーが直ぐに戻って来るのかを訊こうかと、ハリーはベッドに向かって歩き出した。 もしかしたら、自分はベッドの付近に置かれた高級そうな品に気が付いていたのかも知れない。 そっと捲ったカーテンの奥で眠っているドラコを目にし、ハリーはふとそう思った。きっと自分は、彼が起きていたら嫌味の一つも言って、鬱憤を晴らそうとでも思っていたのだろう。 眠っているドラコが起きる様子はなかった。ハリーの立てた物音に気付くこともなく、ぐっすりと寝込んでいるらしい。ハリーは無表情にドラコを見下ろした。 医務室に居るのだから不思議ではないが、彼は何時にも況して顔色が悪かった。青白い肌に白金の髪が軽く掛かり、長い睫が濃い影を落としている。彼を正面から見たのは、二ヶ月振りだろうか。暫く見ないうちに、痩せた様だ。顔の横に置かれた腕は細く、薄い皮膚の下に青い血管が透けて見える。青白い手は、まるで温度を持っていないかの様だ。 ふと、ハリーは不安になった。彼は本当に、息をしているのだろうか？ 指先をドラコの唇の近くに持っていくと、微かな空気の流れを感じた。それに安堵の息を吐き、次に指先をドラコの手首に持っていく。思った通り、青白い肌は冷たかった。そのことに眉を顰めながら、脈を取る。鼓動を確認すると、今度は細い指先に自分の指を絡めてみた。 惹かれるままに、ハリーはドラコの白い額に口付けを落とした。 我に返ったのは、絡めた指先が応える様に動いたからだった。勢い良く顔を上げ、慌ててドラコの様子を確認する。跳ねる鼓動を抱え、緊張に喉を鳴らすと、ハリーはドラコの顔を覗き込んだ。 彼は深く眠ったままのようだった。良く見れば、サイドテーブルには睡眠導入剤の瓶が置かれている。深い眠りの理由はそれだろう。 起きる筈のないドラコに安堵して、ハリーは息を吐いた。気が付けば、顔が熱い。自分は今耳まで真っ赤になっているのだろう。 跳ねる鼓動を抱えたまま、ハリーはドラコの寝顔に視線を戻した。彼は噂されるのに値する、整った容貌をしている。色の薄い瞳が隠れているのが、残念だと思った。 ―――僕を見て。 湧き起こったその感情に、ハリーの心臓が小さく跳ねた。自分を、見て欲しい。薄い色の瞳に、自分を映して欲しい。自分に、笑い掛けて欲しい。そこにあるものは、嫌悪ではなく……。 ―――僕は、彼が好きだったんだ。 思い至ったその考えに、ハリーは呆然とドラコを見下ろした。 漸く、苛立ちの理由が判った。そして、今更だ、と思った。あれだけ嫌味や皮肉を投げつけておきながら、今更何を言えるだろう。今ではもう、彼は自分の行動に僅かな反応も見せない。気が付かない振りをしている間に、彼は自分への興味を失ってしまったのだ。 ハリーは眠っているドラコの頬にそっと触れた。冷たい肌に、ハリーのぬくもりが伝わる。 ―――きっと、二度とこんな風に触れられることはない。 ハリーはドラコの淡い金髪を柔らかく梳いた。それから白い指先に口付けを落とすと、静かにその場を後にした。 目の端を横切った白金に、ハリーは咄嗟に目を伏せた。薬品を手にしたドラコが、教卓の真前の席に着く。彼がハリーに関心を向けずにいることに、教室の誰も関心を払わなかった。最近の彼の体調不良は周知の事実で、彼が大人しいのはその所為だとされているのだろう。それに、彼がハリーに関わらないことも、ハリーが彼に関わらないことも、周囲にとっては静かで良いことなのに違いない。ハリーは自嘲気味に微かな笑みを浮かべた。 今にして思えば、彼が自分を嫌っていたときの方が、まだ可能性があったのかも知れない。顔を上げれば、自分の存在を無いものとしている彼が目に入るのだろう。 ―――僕は、ここに居るのに。 苛立ちではなく、淋しさがハリーを襲った。彼は、常に自分を気に掛けてくれる存在だったのに。見方を変えれば、如何に自分が彼を気に掛けていたのか、そして如何に彼が自分を気に掛けていたのかが判る。 ハリーは斜め前の席に座るドラコをそっと覗き見た。今もあまり顔色が良くない彼は、人形のように無表情に、机の上の教科書に視線を落としている。彼はもう、決してこちらを振り向かない。 ハリーは再び目を伏せると、唇を噛んだ。 もっと早くに、気が付いていれば良かったのだ。彼が自分に喧嘩を売ってきている頃に気が付いていれば。その頃ににっこりと笑って好きだと伝えていたら、彼はどんな顔をしただろう？ そんなことを考えて、ハリーは溜息を吐いた。今更だ。今更、どうにもならない。 言えない言葉が、胸の奥に重く残った。 大広間に向かう足取りは重かった。夕食時には、生徒が揃う。 ドラコは隣を進む二人に促される様に歩みを進めていたが、結局大広間に着く前にその歩みを止めた。 「ドラコ？」 「どうしたの？」 怪訝そうな顔を浮かべているゴイルとクラップは、早く大広間で夕食に有り付きたいのだろう。それでも、突然立ち止まったドラコに合わせて歩みを止め、ドラコの返答を待っていた。 「……先に行け。僕は用を思い出した」 「ドラコ、また食事抜くの？ 良くないよ」 「顔色良くないし。ちゃんと食べないと……」 二人が心配そうに顔を覗き込んでくる。ドラコは肩を竦めた。 「いらない」 短く言って、ドラコは踵を返した。 二人の気遣いは嬉しかったが、それでも大広間に行く気にはなれなかった。大広間には、彼がいる。もし向かい合う位置に座ってしまったら、授業中の様にはいかない。嫌でも視界に入ってしまう。 最近の、気遣う様な視線を向けるロンとハーマイオニー。そして、ドラコの存在に気が付かなかったかの様なハリーを思い出し、ドラコは目を伏せた。 彼を怒らせないでいても、結局は変わらなかった。嫌味や皮肉で気を引かなくとも、ハリーは自分に対する嫌悪を変えなかった。そして今は、視線すら向けない。擦れ違っても、自分の存在を気にも留めない。 擦れ違い様に、自分は心臓が跳ねるほどなのに。 ドラコは感情の高ぶりを抑えようと、唇を噛んだ。関わらなければ、痛みを覚えることもないのかも知れないと思った。しかし、結果はどうだろう。 現状が、諦めろと諭す。何かが変わるかも知れない。そんな期待を持つのは、愚かなことだと。 これ以上何かをすることなど、ドラコには出来なかった。況してや、自分の気持ちを伝えるなど出来るわけがない。 ハリーの冷たい視線が、これ以上酷くなるところなど見たくなかった。話にならないと笑われる様なら尚更だ。 ドラコは寮に向かっていた足を止め、逡巡の後、隠し部屋に向かって歩き出した。 言えない言葉を、奥底に押し込める。蓄積されていくそれが、酷く重かった。 next |